2010年 01月 11日
息抜きがてら本棚にあった本を読み始めてみたら、面白いアイデアを発見したので書き残しておく。(過去に読んでるはずなのに全く覚えてない。居眠りしながら読んでたんだろうな。) Douglass North, John Wallis, and Barry Weingast, Violence and Social Orders -A Conceptual Framework for Inerpreting Recorded Human History- 2009, Cambridge Univ. Press ■ 彼らは経済成長について次のように言う。すなわち、「低所得・中所得国の経済が貧しいのは、彼らが(1)高所得国経済より頻繁に所得減少の期間を経験しているからであり、(2)その期間の所得減少の程度は高所得国経済より深刻だからである(pp.6)」。 ■ 重要なのは1点目で、著者は、低所得・中所得国経済は先進国経済よりも高い経済成長率を実現することがあるにもかかわらず、その成長は長続きしないばかりか、せっかくの成長をマイナス成長によって相殺してしまうことをデータから示している。 ■ 通常、経済学者は次のように問う。先進国は所得水準を向上させることができたのに、ほかの国がそうできないのは何故か。この問いは、これまで多くのアイデアを回答として生み出してきたのだが、次のように問いを変えると、また違う回答が可能な気がする。つまり、先進国がマイナス成長期間を減らすことができたのは何故か。さらに、途上国がマイナス成長期間を長くしてしまうのは何故か。 #
by yoichikmr
| 2010-01-11 11:43
| 記事
2010年 01月 11日
『中国の貯蓄ブームに見る成長の限界 (Financial Times: Jan 6th 2010)』 Savings boom raises questions about growth and decoupling 【経済成長】 (a) 輸出総額が非常に大きいが輸入総額も大きいため、2008年に純輸出(輸出マイナス輸入)はGDP(総付加価値)の7%。 (b) 純輸出の経済成長への貢献は小さい[1.1%: Prasad (2010?) in Finance and Development]。 (c) 経済成長の原動力は主に投資。 (d) 民間消費が過去10年間に10%ポイント減少(46%->35%)していることから、民間消費の貢献も小さいと示唆される。 【金融市場と企業の投資行動】 (e) 実質金利はマイナス[つまり、銀行に預金すると資産が目減りする。普通は逆。]。 (f) 金融システムが未発達[詳細の記述無し]。 (g) 以上二つの理由から、中国企業は投資の資金を外部調達できず、利潤を保有(貯蓄)することもできない。結果的に、何らかのプロジェクトに投資する[非効率投資の発生を示唆]。 【労働市場】 (h) 経済成長率が年間10%以上にもかかわらず、雇用伸び率は1%。 +++++++++++++++++++++++ 【感想】 (1) 投資と純輸出の経済成長への貢献度合いに関しては、注意深い観察と分析が必要。純輸出の貢献が小さく出ているのは、「投資→輸出増→経済成長」という経路が投資の貢献として計上されているからかもしれない。上述のPrasad氏の論文がこの点を考慮しているのかどうかはわからない。 (2) 政府当局が民間投資水準を引き上げるために、金融システムの自生的発展を意図的に制限しているとすると、その影響が中長期にわたって出るのではないか。上記(f)が示唆するように、外部資金の調達が難しいのであれば、新しい企業や新しい産業の勃興が遅れるはず。すると、かつての日本や韓国などのように少数の財閥(あるいはコングロメレット)が生まれやすく、さらに、これらの団体が経済的利益を独占することで、金融システムの自生的発展を阻む経済的・政治的力が働くだろう。要するに、投資誘発のための一時的な中国の政策は中長期的に意図せざる効果を持つ可能性が十分にあって、しかも、最終的には社会的に望ましくない効果のほうが勝ることなるかもしれない。中国経済の場合、そうなる可能性はとても高いと思う。 (3) 労働市場で何が起こっているかを知るには、(h)の情報だけでは全く不十分。「何もわからない」と言っても差し支えない。中国経済の経済成長の主要因は投資にあるから、その投資はおそらく低スキル労働者を機械で置き換えている。同時に、機械の導入は、多くの場合、企業に高スキル労働者を多く需要させるので、結果として、高スキル労働者の雇用拡大と低スキル労働者の雇用縮小が同時に起こっていると予想できる。また、空間的に見れば、投資は地域間で全く異なる水準で進んでいるはずであり、そうであれば、都市部などの投資が盛んな地域と農村部の投資が進まない地域とで、雇用水準とその伸び率に差があっておかしくない。マクロレベルの統計では、労働市場で何が起こっているか判断できない。 中国経済の発展は沿岸部の都市部で進んでいることが知られており、それは同時に投資が活発な地域であり、人口が大きく、人口流入も早いスピードで進んでいる地域である。労働力が経済発展の原動力のひとつとして働いていることは間違いない。投資によって企業内資本が拡大する局面では、同時に、企業内の人的資本(労働力)の組織が変化しているはずである。組織の変化が、単一の労働力の生産への貢献を変化させているはずである。したがって、(1)機械の導入と(2)組織の変化の2点が、企業の労働力への需要の仕方を変えている。転じて、労働力が経済成長にどのように貢献しているかは、これらの変化に拠る。 #
by yoichikmr
| 2010-01-11 11:20
| Asia
2010年 01月 04日
■ 20世紀を特徴付けるのは物理学の発展だと言われる。あるいは、社会科学に目を向けると、経済学の発展が20世紀の象徴だと目されるかもしれない。これらの学術的発展を下から支えたのは、19世紀末に、それまでの数学的知識を応用する形で勃興してきた統計学である。統計学は、過去1世紀に数多くの科学的知識(サイエンスでは物理学、化学、生物学、工学など、社会科学では経済学、社会学、政治科学など)が生まれたとき、現実に観察されるデータから「命題(仮説)の確からしさ」への論理的経路を提供してきた。別の言い方をすると、統計学は経験を知識に変えてきた。その意味で、20世紀を真に特徴付けるのは統計学であって、人類史の観点に立てば、この「統計革命」こそが重要な事件だろう。 ■ 物理学や経済学に限らず、学問の中枢には観察可能な現象間を繋ぐ論理的パイプとしての理論があるけれど、この理論(演繹的推論)は必ずしも真であるとは限らない。なぜかというと、理論が系(けい)内部で論理的に整合的であるとしても、その系自体が、人間の認識と無関係に存在する真理(もしそれが存在するとするなら)と整合的であるかどうかはわからないからだ。地動説と天動説の二つの理論はその良い例だろうと思う。どちらの理論も体系内部では整合的だったが、コペルニクスとガリレイは、天動説が拠って立つキリスト教的自然観を疑い、丹念な観察を重ねた結果、地動説が正しいことを証明した。学問体系の基礎を作る諸概念が実際と相容れない場合、その上にたつ理論は真理として受け入れられることはない。 ■ 観察は、系の確からしさと理論の確からしさとを精査する。系の確からしさが疑われ、結果として新しい系が生み出されれば、学問体系そのものが大きく生まれ変わる。これはThomas Kuhnが言う「パラダイム」の変化。一方で、大抵の場合、理論の確からしさが疑われる。観察によって理論が反証されれば、その理論は二度と知識として認められることはない。それでは、系内部で論理的に整合的な理論が観察によって反証されなかった場合は、われわれはその理論を新しい知識として認めてよいのだろうか? ■ 現実の学術世界では、こういう作業を経たアイデアは「知識」として共通了解されていると思う。けれども、俺はここでKarl Popperの言う反証可能性という考え方の持つ示唆に忠実であるべきだと思う。「反証可能性の示唆すること」とは、帰納法への懐疑であり、さらに(誤解を恐れず)言えば、経験主義の上に立つ(すべての)科学への懐疑だ。この場合の懐疑は、「消極的な懐疑」を意図していて、それはむしろ不可知論的立場に近い。すなわち、経験的にひとつの命題の真偽が確かめられたとしても、それが別の観察によっても同じく確かめられるかどうかは分からない(不可知)という立場だ。この立場の下では、たとえあるアイデアが数百年の間棄却されることなく生き続けてきたとしても、それはひとつの深刻な反証の前では無力となりうることを意味している。特に、社会科学は、複製することが事実上不可能な実験装置(例えば、歴史)上でしか観察することができないから、ひとつの標本上で命題が真とされても、別の標本上で命題が真となる保証はない。観察者(研究者)に観察不可能な要因が、命題の真偽判定に予期せざる影響をもたらすかもしれない。事実、こういう競合しあう実証的結果は豊富に転がっていて、だからこそ、学会内では「論争」が起こったりする。 ■ つまるところ、理論的方法と経験的方法のどちらか、あるいは両方を取ったところで、それはひとつのアイデアに過ぎない。「理論と実証が学問進化の両輪」とする論は不完全だ。学問は、演繹的であれ、帰納的であれ、ひとつの考え方を提示することしかできず、結果的に蓄積されるものは、真かもしれないものと、真ではありえないものとの区別なんだろうと思う。学術的作業を通してできることは、古代ギリシャ哲学者が目指したような命題の真偽への接近ではなくて、(a)明らかな偽を排除した上で、(b)諸々のアイデアを並べることなんだろうと思う。 #
by yoichikmr
| 2010-01-04 12:53
| 記事
2010年 01月 04日
■ 高校を卒業して10年。2010年は定期的に何かを書こうと思う。これまで2,3年間、ものを書く作業が疎かだった。今にして思えば当然なのだが、その間の俺は、自分なりの考え方やものの見方が確立しておらず、逆にそれを確立しようとしている真っ只中だったから、「まずインプットが先、アウトプットは未だ」という意識があった。同じく、何か書くなら十分に推敲を重ねた、アイデアに満ちた文章を書きたいという思いが常にあった。だから、この1,2年間に書きためた文章のテーマが20近くに及ぶにもかかわらず、ただのひとつも完成に至っていない。翻って、それは「インプットが先、アウトプットは後」という俺の過去1,2年の様を物語っている。 ■ アメリカでの学生生活を2年半終えて、こちらでのPhD課程も(規定の期間ではないのだが)一応半分を越した。初めの2年間のインプット作業を終えて、俺の日常的な作業は、選択と解釈の繰り返しになった。何を考えるかを自分で選択して、しばらくしたらそれを振り返って自ら解釈する。この過程にノウハウはないし、答えもない。大海に出て、どちらへ向かって帆を立てるかというのと同じこと。ものを書くことでその軌跡を残すことは、選択と解釈の過程を円滑にするし、将来何かに迷ったときの道しるべとなるはず。書くことが思考を活性化してくれれば嬉しい。 ■ 書くことをしないと、思考が堂々巡りする。気づけば、昨日考えたことを今日考えたりしている。同じテーマやアイデアについて、何日も何週間も断続的に考えていたりする。それ自体は無駄なことじゃないんだが、毎回振り出しに戻るのはいかがなものか。やはり、思考の軌跡を残すことで、今日と明日の思考を円滑に繋げたい。 #
by yoichikmr
| 2010-01-04 09:19
| 日記
2009年 12月 24日
今日学術分野横断的に最も関心が集まっているのは国際格差(international inequality)かもしれない。ここに、最近調べたことをまとめておく。 経済学者は過去四半世紀に、国と国との経済的格差への関心を増した。その萌芽となったのは1980年代の内生的経済成長理論の進展だろうと思う。経済学者は、先進国と発展途上国という二つの相異なる経済状態へ至る要因を学問体系の内部から考えることができるようになった。 また、現実に観察される経済現象から得たデータをもとに行う実証分析の手法が進展したことも、経済学者の開発問題への従事を後押しした。動的な状態変化である経済発展を数量的に分析するためには、一時点における経済の比較では不十分で、複数の経済状態を同時に眺めながら、経済状態が動的に変化する要因を探さないといけない。近年の計量経済学的発展はこういう研究上の方法論を経済学へ導入し、多くの経済学者をこの分野へ引き付けた。 このように、経済学は諸々の方法論上の発展によって、経済を技術的に前進させる諸要因を探り始めることになったが、他方で、発見された諸要因を元に「いかなる社会」が導かれるべきかという道徳に関する価値判断に関して、経済学は依然として微力である。おそらく古くは19世紀のワルラスやエッジワースの時代以来、経済学の骨子には功利主義と効率主義があるが、これ以外の価値判断基準を取り込むことができないでいる。功利主義とは、最大多数の最大幸福を標榜する価値基準で、幸福の総量が大きければ、それを社会の構成要素間で分配することで、社会的により望ましい状況へ近づくことができると考える。効率主義は、技術的に達成可能な幸福総量であるなら、それが達成されることが望ましく、諸々の理由で幸福総量が減少することは望ましくないと考える。 これに対する批判が過去50年に少なくとも2点あって、ひとつがセンによる「潜在能力」という考え方であり、もうひとつがロールズによる「公正としての正義」である。潜在能力のアイデアは、第一に、価値は多次元あり、功利主義が考えるような一次元の価値(例えば、経済的豊かさ)は不十分だとし、第二に、一部の価値は個人間で移転不可能だとする。一方、公正としての正義は、功利主義に新しい価値基準を導入することによって、その不十分さを修正する。具体的に導入される価値基準とは公正性のことで、これは、社会構成員によって暗黙のうちに賛同されるとされる。 センによる潜在能力は、近年の経済学では、純粋理論レベルから導入が試みられ始めている。第二点目の「移転不可能な価値」は、その名のとおり、移転不可能な効用として理論化され始めている。一方、ロールズによる公正としての正義は、近年の経済学では導入に成功していない。 注目すべきことは、このロールズによる公正としての正義("A Theory of Justice", 1971年)の概念が、経済学者も共有する国際的経済格差の考察に応用されているということだ。その骨子は、ロールズの理論を一国のものから世界のものへと拡張する。アイデアは、一国内で見れば、格差が拡大しないように是正がされるべきだと言うロールズ理論を応用し、世界レベルの観点に立てば、格差が拡大しないように貧しい者へ援助されるべきだというものである。ロールズのハーバード大学の弟子であるポッゲ(Thomas Pogge)は、先進国のひとは積極的に発展途上国の人々へ援助をすることが、公正としての正義の観点から要求されるとする。この考え方を、Global Justiceという(後日注:この分野に関する詳しい議論については International Justice - Stanford Encyclopedia of Philosophy を参照のこと(2011年1月31日))。 以上、経済学による国際格差への取り組みを基礎に、政治哲学が過去50年間に付加した思想を非常に簡単に要約してみたが、最後に、未だロールズとポッゲを完全に読み込んでいない段階で、これらに対する私見も残しておく。 第一に、国際的格差が政治哲学者にまでテーマとして取り上げられる現状を見ると、おそらくこれは人類にとっての今日的課題の最たるもののひとつだろう。国際的格差は、それ自体に意味があるだけでなく、グローバリゼーションという作用を通じて、国内格差にも影響を与えている。すると、議論は国際的場面で始まったにもかかわらず、ロールズ的な国内の場面に戻ってくる。その意味で、この思想的発展は一世代前からの不連続な変化ではなく、同一線上にある。 第二に、ロールズの一国内再分配はまだしも、ポッゲの国際間再分配は、それを実行する主体があいまいで、その結果、先進国に属する個人による自主的援助が求められている。しかし、この点は、一般的に言われる援助と同様、その動機がどこから生じるのかという点に謎を残す。第二次世界大戦以降の世界は、直接関係のない個人間で「いかなる統治機構をも超えて」行われる所得再分配(援助)を人類史上おそらく初めて開始したけれども、その行動をもたらす動機に関しては、われわれは確かなことを知らない。動機が重要となるのは、援助が結局のところ援助者を益して、被援助者を益さないということがあり得るからだ。 第三に、ロールズとポッゲの公正性という議論を与件とすると、社会が、一国家であれ諸国家であれ、戦略的に低発展状態に陥ってしまう可能性がある。先進国が国際的格差を拡大させすぎたときに、公正性の観点から途上国への援助(再分配)を道徳的に求められるのであれば、先進国の人々には、初めから中程度の発展に抑えようとするインセンティブが働く。このとき、効率性と公正性という二つの価値概念が衝突しあう。望ましい社会の姿を判断するための価値概念自体が衝突するとき、われわれはどのような選択をすべきなのか。道しるべとなる価値基準を、われわれは持ち合わせていない。 #
by yoichikmr
| 2009-12-24 10:17
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