<   2010年 01月 ( 7 )   > この月の画像一覧


2010年 01月 25日

オバマ政権の医療保険制度と景気刺激策

■ 先週19日火曜日、米国マサチューセッツ州で行われた上院議員補欠選挙で、共和党のスコット・ブラウンが選出された。この選挙には、下院に提出されていた全国医療保険制度に関する法案(Healthcare Bill)が上院で可決されるかどうかがかかっていた。今回の選挙で共和党議員が選出されたことで、Filibusterと呼ばれる嫌がらせ行為(答弁をする議員がトイレから出てこない、などw)を強制終了できなくなるらしく、この法案が上院を通過することが困難になった。上院100議席中60議席を確保しないとFilibusterを排除できないらしいが、今回の選挙で民主党は60議席を割った。

■ 米国は全国共通の医療保険制度を持っていないが、マサチューセッツ州は州独自の医療保険制度を持っている(俺も強制加入させられている)。州独自の医療保険に加えて、全国共通の医療保険も始められたら、マサチューセッツ州民にとってプラスとならないと見られていたようで、だから、選挙に投票した人たちは全国共通の医療保険を嫌って共和党を選んだと見る人もいる。

■ しかし、今回の選挙の結果は、医療保険システムに対してマサチューセッツ州民が「待った」をかけたというより、発足以来ちょうど1年のオバマ政権の経済刺激策に対する「待った」と評価する向きが多い。

■ オバマは2008年11月の大統領選挙時、マサチューセッツ州で26%ポイント差で勝ったが、今回の上院補欠選挙では5%ポイント差で負けた。大統領選のときバージニア州では6%ポイントで勝ったが、2009年11月の州知事選では18%ポイント差で負けた。大統領選ではニュージャージー州は16%ポイント差でオバマの勝ちだったが、2009年の州知事選では4%ポイント差で負けた。2010年は、11月に大統領選中間選挙も控えていて、オバマ政権に対する中間評価が続くことになるが、過去数ヶ月の選挙結果を見る限りでは、米国民のオバマ政権に対する評価は辛い。
President Obama carried Massachusetts by 26 points on Nov. 4, 2008. Fifteen months later, on Jan. 19, 2010, the eve of the first anniversary of his inauguration, his party's candidate lost Massachusetts by five points. That's a 31-point shift. Mr. Obama won Virginia by six points in 2008. A year later, on Nov. 2, 2009, his party's candidate for governor lost by 18 points—a 25 point shift. Mr. Obama won New Jersey in 2008 by 16 points. In 2009 his party's incumbent governor lost re-election by four points—a 20-point shift. [The New Political Rumbling: Massachusetts may signal an end to old ways of fighting. -By PEGGY NOONAN (Jan 22, 2010)]

■ オバマ政権の景気刺激策は、過去20年間の(特に90年代の)日本の景気対策と同じく、公共投資(道路工事など)に向かっている。これに対して、ハーバード大学ケネディ行政大学院のアルバート・アレシナ教授とシカゴ大学ビジネススクールのルイジ・ジンゲイル教授は、消費者がリスクをもっととることで、民間企業の投資が増えるようにしないといけないと説く [Let's Stimulate Private Risk Taking: Tax cuts are the way to nudge capital toward productive uses -By ALBERTO ALESINA and LUIGI ZINGALES (Jan 21, 2010)]。

A. 2009年以降のすべての投資に対して、キャピタルゲインへの課税を一時的に(少なくとも2年間)停止する。
B. キャピタルロスは、大部分税額控除対象にする。
C. 2009年に行われた資本への投資と、研究開発への投資をすべて税控除する。

民間貯蓄が諸々のファンド(特にMutual Fund)から株式投資へ流れることを期待している。らしい。当然、貯蓄がそんなにない人たちも救済できないといけない。アレシナとジンゲイルによると、失業補助と減税を実施するほうが、公共投資をするより効果的なようだ*。
Many are concerned about what we can do to help the poor weather this crisis. Unlike during the Great Depression, we have an unemployment subsidy that protects the poor from the most severe consequences of this recession. If we want to further protect them, it is better to extend this unemployment subsidy than to invest in hasty public projects. Furthermore, tax cuts have a much better effect on job creation than highway rehabilitation. [Let's Stimulate Private Risk Taking: Tax cuts are the way to nudge capital toward productive uses -By ALBERTO ALESINA and LUIGI ZINGALES (Jan 21, 2010)]

彼らの議論の根底にある前提は、今回の経済危機が金融サイドからのみ発生していて、実物サイドは元凶ではないということだ。そして、それは正しい。サブプライムローンがクレジットスワップを通じて信用市場を揺るがした結果、信用収縮(Credit Crunch)が起きている。信用市場は、投資信託などの中間投資家を経て債権者から債務者へ流れる間接的信用力を失っただけでなく、債権者から債務者への直接的信用力をを失った。この一連の流れの中に、技術的な問題は一切入ってこない。

■ 当然、信用市場の活況を取り戻すために、金融市場制度をより安全にしないといけない。今回記事に取り上げたオバマ政権の政策とは別に、オバマ大統領は金融市場、とりわけ銀行制度の改革に取り組んでいる。「大きすぎて倒産できない(Too big to fail)」というアイデアが大手銀行の救済をサポートしているが、それだけに、過去1年半の間、銀行の上級管理職が多額のボーナスを手にしたことに対して、民間の心理的反発はとてつもなく大きい。先週は、大手銀行の上級管理職の2009年度ボーナスが報道された。来週には、これらの銀行上層部を含め、世界中の財界・政界の人たちがスイスのダボスで経済会議に参加する。今後の展開にさらに注目したい。

_____________________
*: 公正を期すために記すと、経済学者の間でもこの点にコンセンサスはない。例えば、2008年にノーベル経済学賞を受賞したプリンストン大学のポール・クルーグマン教授は、オバマ政権の経済刺激策としての公共投資は「全く足りていない」と発言しており、さらなる公共投資を呼びかけている。
About the stimulus: it has surely helped. Without it, unemployment would be much higher than it is. But the administration’s program clearly wasn’t big enough to produce job gains in 2009. Why was the stimulus underpowered? A number of economists (myself included) called for a stimulus substantially bigger than the one the administration ended up proposing. According to The New Yorker’s Ryan Lizza, however, in December 2008 Mr. Obama’s top economic and political advisers concluded that a bigger stimulus was neither economically necessary nor politically feasible. Their political judgment may or may not have been correct; their economic judgment obviously wasn’t. [What Didn’t Happen -By PAUL KRUGMAN (Jan 17, 2010)]

[PR]

by yoichikmr | 2010-01-25 22:00 | 記事
2010年 01月 18日

社会における情報制御

■ NHKが放送した「クローズアップ現代:変わる巨大メディア・新聞」を見た。新聞産業は過去2,3年間で大きく変質したと言う。

(1) 売り上げが大きく下落した。
(2) それを受けて、雇用者数(記者数)を減らした。
(3) インターネットを媒介として記事を配信し始めた。
(4) 最近では、自社自ら記事を書くのではなく、記事を他社から買い上げるスタイルへの転換を図っている。

■ まず、新聞産業に起こっていることの表層を考えたい。次に、この事例がより一般的な社会構造に与える影響を考えてみる。

■ (1)は、番組内では、(a)情報技術(internet)の登場と、(b)消費者の新聞離れによるとされていた。(a)の効果は、新聞産業に限らず、現代のほぼすべての産業で進行中だ。新聞業界は、その流れに乗って、(3)を促進しないといずれ消滅する。(b)の効果は、俺が考えるに、消費者の好みそのものが変わってしまったとする見方と、好みは変わっていないが、消費者の置かれている立場(所得や労働状況など)が変わったので新聞需要も変わったとする見方に分割できる。

■ 売り上げの下落(1)の理由が情報技術(a)なのであれば、問題は深刻ではない。新聞産業の調整が進めば、いずれ業界は活況を呈す。もし理由が消費者の新聞離れ(b)であると、話はややこしくなる。なぜかというと、消費者の新聞離れ(b)というのは、社会の中で情報の占める位置が変化しているということであって、それは、情報が社会の中で持つ意味が大きければ大きいほど問題となる。俺は特に、この問題を下でさらに掘り下げたい。

■ 記者解雇(2), インターネットの活用(3), 記事の外注(4)の3つは、(1)を受けて、新聞社がどのように対応したかを表している。そのどれをとっても、新聞産業に特殊なことは何もない。

■ 記事の外注(4)に関しては、経済学者の典型的な観点からすると、企業解体とアウトソーシングが起こっていると言える。これらは、実際、ひとつの現象の裏と表だ。一般的に、企業は非効率な部門を発見すると、その部門をより効率的に運営する他社に売却し、その部門の仕事を外注(アウトソース)する。この企業は、非効率部門を売却して、経営により長けた部門に集中することで、経営効率を改善する。一方で、買収された部門は、その部門の経営により長けた新会社の傘下に組み込まれることによって経営効率を改善する。こうして、この一連の企業解体とアウトソーシングは社会的に見て望ましいということになる。

■ ここでは、記事の外注(4)を、生産組織の変化という上記の見方で捉えるのではなくて、社会全体の中の情報制御の変化という見方で捉えてみたい。(実は、組織の形態が情報制御にモロに影響するはずなんだが、その点はしばし置いておくことにする。)

■ 社会は、それ自体が情報処理システムだといえる。個人個人に色づけされた情報は、特殊なシステムを媒介して、時には収集され、別の時には配分される。情報は人と組織の行動を変えるから、その制御は、社会全体の生産技術に影響を与える。情報を制御する特殊なシステムの例を挙げると、市場、民主主義、学校、宗教など、枚挙に暇がない。実際、社会のあらゆる組織と制度はすべて情報処理システムだと言っていい。ここで考察するのは、個別のシステムがどのように働くかということではなくて、情報の制御そのものがいかに社会を形作っているかということだ。情報がいかに制御されているかということは、資本主義と社会主義などの例を持ち出すまでもなく、結果的に社会を特徴付けている。

■ 情報産業は、無限に要素が存在する情報空間からその一部分を取り出すサービスを行う。つまり、情報産業は、情報をコンパクトにする。情報産業は一般的にメディアと呼ばれているが、そのメディアとその他の情報制御システムの違いは、情報が集約される方法が異なるということだ。メディアは己の目的に従って情報を選別する。メディアはそれ自体が目的を持つ意思決定主体なので、彼らは彼らの目的に見合った情報を選別して提供する。一方で、市場や民主主義などの制度は、それ自体が情報選択をすることはない。これらの制度の下では、情報保有者の持つ情報は、制度を介して無目的に集約され、再分配される。

■ 情報産業の退出(あるいは変質)は、潜在的な情報選別バイアスを除去する。情報産業が価値を見出しながら、消費者が価値を見出さない情報(バイアス)を排除する。バイアスを排除する結果、消費者はそれまでに発見不可能だった情報にアクセス可能になる。過去10年から15年の間に情報技術が消費者にもたらした便益はこれにつきる(googleしかり、twitterしかり)。しかし、逆に、消費者は自ら情報を選別する必要があるので、情報探索コストを支払わないといけなくなる。

■ 上記の情報産業の変化の文脈に戻ると、情報産業の変質は、生の情報源から情報消費者までに少なくとも2回の情報選別プロセスを含むことになり、情報選別プロセスが一回しかなかったときと比べて、潜在的な情報選別バイアスは軽減される。例えば、これまで読売新聞は、自ら抱える記者が現場へ急行することによって情報を収集していた。そこでは、情報を吟味する機会が一度しかなかった。一方で、今回の情報産業の変質によって、一度ローカルな新聞社が記事を書いた後に、読売新聞がその記事を買うことになり、情報選別の意思決定が一回多くなっている。今後の読売新聞は、ローカルな新聞社が記事にした情報の中からしか記事を選べないが、他方で、消費者に届く情報は、異なる目的に従う別々の意思決定主体の選別を潜り抜けることになり、より精度を増した記事が期待できる。

■ 望ましいのは、一度別の意思決定主体の解釈(情報選別)を経ることによって、最終的に消費者に届く情報が解釈の度合いを増していることだ。情報を横流しにしているとしたら脳がない。一度情報をクッションさせることによって、多様な情報をもう一度総括し、より一般的な情報をそこから引き出すということ、それが解釈であるとすれば、そのような解釈の度合いを増すことが望ましい。この過程を情報の精密化と呼べば、情報は粗いものからスタートして、最終的には、消費者が利用可能な水準にまで精密化されていないといけない。それは、原油がさまざまな精製過程を経てガソリンなどの利用可能な消費財になる様子と似ている。情報も、同じように、精密化が必要だ。

■ しかし、情報の精密化を実行することは難しい。一面では、情報操作と刷り込み(インプリンティング)が簡単だからであって、他面では、情報選別にチェックとバランスが利かないからだ。情報選別を厳しく監視することができないから、中途半端に一般化された情報が氾濫し、消費者の行動に歪みをもたらす可能性がある。巷でよく聞くメディア批判の元凶は、情報媒体をチェック(監視)できないことにある。消費者は、いかにメディア情報に不満を持っていても、情報媒体をその役割から引きずりおろすことができない。したがって、情報操作に関する権力はすべて情報産業が牛耳ることになり、それはバランスを欠くことになる。このような状況下では、情報産業による情報操作は簡単に行われ、したがって、消費者は簡単に刷り込まれる。

■ これを打破するためには、情報産業に関するよりより制度が必要だ。これまでの100年間で、世界は多くの情報規制を経験してきた。ソ連や中国は言うを待たず、戦時中の日本でさえ情報規制がいかに徹底され、いかに個々人の諸々の機会を奪ってきたかをわれわれはよく知っている。先週発表されたGoogleの中国市場からの(事実上の)撤退は、情報産業に関する制度の現在進行形の問題を提供してくれている。一方向の情報に歪みを作ると、逆方向の情報にも歪みをもたらすはずだ。中国政府当局は、国民に流れる情報を意図的に過度に制御することによって、消費者の行動の歪みをもたらし、それを集計した情報は逆に歪んだ情報しか中国政府当局に届けない。すべてが欺瞞に彩られた社会は、誰にとっても望ましい社会にならない。

■ しかし、よりより制度を構築することがこれまた難しい。制度構築に際して、制度を作る人たちの持っている情報を効率よく収集して分配する制度を持っていないからだ。すでに情報選別権力を持っている主体は制度の変革に抵抗するだろうし、制度が少しでも変革できた場合は、逆にそれが新しい権力者を生む下地を作ってしまう。だから、制度は一度に構築できるものではない。制度の改善と(情報選別)権力の分散、さらに情報保有者が情報保有から受ける便益の軽減の3つが同時に進まないといけないし、それは逆に漸進的にしか進まないはずだ。このプロセスは実現不可能に見えるが、過去数百年の間に、人類は金融制度という資産価値の流れを制御するよく似た制度を構築してきた。いまだ不完全かもしれないが、情報制度が金融制度の経験から学べることはあるはずだ。

■ これまでの社会科学は、情報が個人や社会の間を流れていく様子を量的に明らかにしてきたが、どのような情報が流れていくかという質に関することはいまだわからないことが多い。しかし、社会が情報制御システムなのだとしたら、「どれほど」情報が流れているのかということと同じくらい、「どのような」情報が流れているかということを知り、それを制御することが重要だろう。量と質の両方においてより良い情報の制御がなされる社会を作ることは人類社会の今日的課題だろうと思う。
[PR]

by yoichikmr | 2010-01-18 15:54 | 記事
2010年 01月 18日

乳幼児への教育投資

b0056416_1330317.jpg"Stimulating the Young" @ The American
by James Heckman





■ 古い記事なのだが、アイデアを呼び起こす記事なのでここで取り上げてみる。記事はシカゴ大学のジェームズ・ヘックマン教授によるもので、2008年以降の経済危機の中でオバマ政権が繰り出す経済刺激策の代替案として、乳幼児(0歳から5歳児)教育への投資を呼びかけている。

■ 記事の中では、最近の研究で明らかになってきている乳幼児教育への投資の効果が繰り返し強調されている。俺の知る限り、この一連の研究をしているのはヘックマンのグループだけなので、彼らのここ最近数年間の研究成果をまとめた記事だと見ることもできる。

■ ひとつの研究成果は次のように記述されている。
One of the most notable long-term studies is the HighScope Perry Preschool project, which commenced in 1962 and tracked the impact of two years of high-quality preschool on very poor African-American three- and four-year-olds living in Ypsilanti, Michigan. After those two years, the kids entered regular schools and have been followed for nearly 50 years by researchers.

Children in the program were less likely to commit crimes, less likely to drop out of school, and more likely to be productive, perseverant, socially engaged citizens with higher wages. As the years pass, the data reveal less teen pregnancy for girls, reduced absenteeism for boys, and less need for special or remedial education.

1962年にミシガン州のイプシランティで始まった乳幼児教育プログラムは、3,4歳の貧しい黒人児童に2年間の教育を与え、その後の児童の経済的・社会的パフォーマンスを約50年に渡って追跡している。記事によると、このプログラムを受けた児童は、犯罪を犯す可能性が低く、学校を退学する可能性も低く、生産的で忍耐力があり、より高い賃金を稼ぐ社会の一員になるという。また、歳を重ねても、女子は10代で妊娠することがなく、男子は引きこもりにならず、特別授業や補習を必要としないらしい。

■ また別の研究によると、乳幼児への投資は、高い教育水準、健康水準や社会的地位などを通じて、年率8から10%の投資効率があるという。
Research data clearly shows that investment in early childhood development for disadvantaged children provides an 8 percent to 10 percent annual rate of return through better education, health, and social outcomes

■ これまで、経済学サイドからの見た教育投資への社会的便益というのは、大部分、高校や大学教育への公的投資が個々の学生のその後の経済的・社会的成功をいかにもたらすかという観点で考察されてきた。しかし、これらの研究の多くは、特別な教育を受けた児童が後の人生において、まさに「教育を受けた」ことを戦略的に利用することによって経済的・社会的成功へ至ろうとする効果を、意図的に、ときに無自覚に考慮からはずしてきた。もし小さな集団にのみ教育投資をするのであれば、これらの集団は「他の集団を出し抜く」ことで、後々経済的・社会的な成功を収めることができるかもしれない。しかし、一方で、もし一国全体に教育投資が同じように行われるのであれば、教育による戦略的な差別化は不可能となり、子供たちが生まれてから小学生になるまでの5,6年間に作られた格差はそのまま義務教育(中学・高校)卒業まで残り続けることになる。

■ ヘックマンの提唱する乳幼児童教育への投資は、世代間で継承される所得格差の連鎖を断つという哲学を持っている。金持ちは金持ちであるがゆえに自分の子供に多くの教育投資を施し、貧乏人は貧乏人であるがゆえに自分の子供に教育投資をできない。結果的に金持ちの子は金持ちになり、貧乏人の子は貧乏人になる。これが世代間で継承される所得格差のシナリオだ。このような固定化された所得分布のもとでは、社会が分断されてしまう可能性があり、経済的に見て問題があるだけでなく、生まれたときから機会に差があるという意味で、道徳的にも問題となりうる。ヘックマンは、0歳から5歳までの乳幼児のなかでも、特に経済的に貧しい家庭や社会的に抑圧されている可能性のある黒人家庭の子供に重点的に投資をすることで、義務教育が始まる時点での児童間の格差が是正されるべきであるとする。

■ 非常に美しい議論だが、問題があるとすれば、その実践的方法だろう。特に、これらのアイデアを政策に移すときの政治的衝突を乗り越えられるかどうかが問題となる。一般的に、特定の世代のみを益する政策は、別の世代から賛同を得られないことが多い。例えば、昨今の民主党の高等教育無償化論議は、この政策から直接恩恵を受けない世代から批判を受けていると思う。アメリカの場合、高所得者層の住む社会と低所得者層の住む社会とは多くの場合隔絶されており、乳幼児教育が高所得者層へもたらす便益は無視できるほど小さいかもしれない。そうすると、この階層はこの政策に賛成票を投じず、実行に移されることはなくなってしまう。この点をクリアすることが、よりよい教育システムの実現のために必要だろうと思う。
[PR]

by yoichikmr | 2010-01-18 14:37 | 記事
2010年 01月 11日

なぜ経済は崩壊するのか -問いの転換-

b0056416_112549.jpg息抜きがてら本棚にあった本を読み始めてみたら、面白いアイデアを発見したので書き残しておく。(過去に読んでるはずなのに全く覚えてない。居眠りしながら読んでたんだろうな。)

Douglass North, John Wallis, and Barry Weingast,
Violence and Social Orders -A Conceptual Framework for Inerpreting Recorded Human History-
2009, Cambridge Univ. Press


■ 彼らは経済成長について次のように言う。すなわち、「低所得・中所得国の経済が貧しいのは、彼らが(1)高所得国経済より頻繁に所得減少の期間を経験しているからであり、(2)その期間の所得減少の程度は高所得国経済より深刻だからである(pp.6)」。

■ 重要なのは1点目で、著者は、低所得・中所得国経済は先進国経済よりも高い経済成長率を実現することがあるにもかかわらず、その成長は長続きしないばかりか、せっかくの成長をマイナス成長によって相殺してしまうことをデータから示している。

■ 通常、経済学者は次のように問う。先進国は所得水準を向上させることができたのに、ほかの国がそうできないのは何故か。この問いは、これまで多くのアイデアを回答として生み出してきたのだが、次のように問いを変えると、また違う回答が可能な気がする。つまり、先進国がマイナス成長期間を減らすことができたのは何故か。さらに、途上国がマイナス成長期間を長くしてしまうのは何故か。
[PR]

by yoichikmr | 2010-01-11 11:43 | 記事
2010年 01月 11日

中国の経済成長と金融市場

中国の貯蓄ブームに見る成長の限界 (Financial Times: Jan 6th 2010)』
Savings boom raises questions about growth and decoupling

【経済成長】
(a) 輸出総額が非常に大きいが輸入総額も大きいため、2008年に純輸出(輸出マイナス輸入)はGDP(総付加価値)の7%。
(b) 純輸出の経済成長への貢献は小さい[1.1%: Prasad (2010?) in Finance and Development]。
(c) 経済成長の原動力は主に投資。
(d) 民間消費が過去10年間に10%ポイント減少(46%->35%)していることから、民間消費の貢献も小さいと示唆される。

【金融市場と企業の投資行動】
(e) 実質金利はマイナス[つまり、銀行に預金すると資産が目減りする。普通は逆。]。
(f) 金融システムが未発達[詳細の記述無し]。
(g) 以上二つの理由から、中国企業は投資の資金を外部調達できず、利潤を保有(貯蓄)することもできない。結果的に、何らかのプロジェクトに投資する[非効率投資の発生を示唆]。

【労働市場】
(h) 経済成長率が年間10%以上にもかかわらず、雇用伸び率は1%。

+++++++++++++++++++++++

【感想】
(1) 投資と純輸出の経済成長への貢献度合いに関しては、注意深い観察と分析が必要。純輸出の貢献が小さく出ているのは、「投資→輸出増→経済成長」という経路が投資の貢献として計上されているからかもしれない。上述のPrasad氏の論文がこの点を考慮しているのかどうかはわからない。

(2) 政府当局が民間投資水準を引き上げるために、金融システムの自生的発展を意図的に制限しているとすると、その影響が中長期にわたって出るのではないか。上記(f)が示唆するように、外部資金の調達が難しいのであれば、新しい企業や新しい産業の勃興が遅れるはず。すると、かつての日本や韓国などのように少数の財閥(あるいはコングロメレット)が生まれやすく、さらに、これらの団体が経済的利益を独占することで、金融システムの自生的発展を阻む経済的・政治的力が働くだろう。要するに、投資誘発のための一時的な中国の政策は中長期的に意図せざる効果を持つ可能性が十分にあって、しかも、最終的には社会的に望ましくない効果のほうが勝ることなるかもしれない。中国経済の場合、そうなる可能性はとても高いと思う。

(3) 労働市場で何が起こっているかを知るには、(h)の情報だけでは全く不十分。「何もわからない」と言っても差し支えない。中国経済の経済成長の主要因は投資にあるから、その投資はおそらく低スキル労働者を機械で置き換えている。同時に、機械の導入は、多くの場合、企業に高スキル労働者を多く需要させるので、結果として、高スキル労働者の雇用拡大と低スキル労働者の雇用縮小が同時に起こっていると予想できる。また、空間的に見れば、投資は地域間で全く異なる水準で進んでいるはずであり、そうであれば、都市部などの投資が盛んな地域と農村部の投資が進まない地域とで、雇用水準とその伸び率に差があっておかしくない。マクロレベルの統計では、労働市場で何が起こっているか判断できない。

中国経済の発展は沿岸部の都市部で進んでいることが知られており、それは同時に投資が活発な地域であり、人口が大きく、人口流入も早いスピードで進んでいる地域である。労働力が経済発展の原動力のひとつとして働いていることは間違いない。投資によって企業内資本が拡大する局面では、同時に、企業内の人的資本(労働力)の組織が変化しているはずである。組織の変化が、単一の労働力の生産への貢献を変化させているはずである。したがって、(1)機械の導入と(2)組織の変化の2点が、企業の労働力への需要の仕方を変えている。転じて、労働力が経済成長にどのように貢献しているかは、これらの変化に拠る。
[PR]

by yoichikmr | 2010-01-11 11:20 | Asia
2010年 01月 04日

統計学の発展と科学への懐疑

■ 20世紀を特徴付けるのは物理学の発展だと言われる。あるいは、社会科学に目を向けると、経済学の発展が20世紀の象徴だと目されるかもしれない。これらの学術的発展を下から支えたのは、19世紀末に、それまでの数学的知識を応用する形で勃興してきた統計学である。統計学は、過去1世紀に数多くの科学的知識(サイエンスでは物理学、化学、生物学、工学など、社会科学では経済学、社会学、政治科学など)が生まれたとき、現実に観察されるデータから「命題(仮説)の確からしさ」への論理的経路を提供してきた。別の言い方をすると、統計学は経験を知識に変えてきた。その意味で、20世紀を真に特徴付けるのは統計学であって、人類史の観点に立てば、この「統計革命」こそが重要な事件だろう。

■ 物理学や経済学に限らず、学問の中枢には観察可能な現象間を繋ぐ論理的パイプとしての理論があるけれど、この理論(演繹的推論)は必ずしも真であるとは限らない。なぜかというと、理論が系(けい)内部で論理的に整合的であるとしても、その系自体が、人間の認識と無関係に存在する真理(もしそれが存在するとするなら)と整合的であるかどうかはわからないからだ。地動説と天動説の二つの理論はその良い例だろうと思う。どちらの理論も体系内部では整合的だったが、コペルニクスとガリレイは、天動説が拠って立つキリスト教的自然観を疑い、丹念な観察を重ねた結果、地動説が正しいことを証明した。学問体系の基礎を作る諸概念が実際と相容れない場合、その上にたつ理論は真理として受け入れられることはない。

■ 観察は、系の確からしさと理論の確からしさとを精査する。系の確からしさが疑われ、結果として新しい系が生み出されれば、学問体系そのものが大きく生まれ変わる。これはThomas Kuhnが言う「パラダイム」の変化。一方で、大抵の場合、理論の確からしさが疑われる。観察によって理論が反証されれば、その理論は二度と知識として認められることはない。それでは、系内部で論理的に整合的な理論が観察によって反証されなかった場合は、われわれはその理論を新しい知識として認めてよいのだろうか?

■ 現実の学術世界では、こういう作業を経たアイデアは「知識」として共通了解されていると思う。けれども、俺はここでKarl Popperの言う反証可能性という考え方の持つ示唆に忠実であるべきだと思う。「反証可能性の示唆すること」とは、帰納法への懐疑であり、さらに(誤解を恐れず)言えば、経験主義の上に立つ(すべての)科学への懐疑だ。この場合の懐疑は、「消極的な懐疑」を意図していて、それはむしろ不可知論的立場に近い。すなわち、経験的にひとつの命題の真偽が確かめられたとしても、それが別の観察によっても同じく確かめられるかどうかは分からない(不可知)という立場だ。この立場の下では、たとえあるアイデアが数百年の間棄却されることなく生き続けてきたとしても、それはひとつの深刻な反証の前では無力となりうることを意味している。特に、社会科学は、複製することが事実上不可能な実験装置(例えば、歴史)上でしか観察することができないから、ひとつの標本上で命題が真とされても、別の標本上で命題が真となる保証はない。観察者(研究者)に観察不可能な要因が、命題の真偽判定に予期せざる影響をもたらすかもしれない。事実、こういう競合しあう実証的結果は豊富に転がっていて、だからこそ、学会内では「論争」が起こったりする。

■ つまるところ、理論的方法と経験的方法のどちらか、あるいは両方を取ったところで、それはひとつのアイデアに過ぎない。「理論と実証が学問進化の両輪」とする論は不完全だ。学問は、演繹的であれ、帰納的であれ、ひとつの考え方を提示することしかできず、結果的に蓄積されるものは、真かもしれないものと、真ではありえないものとの区別なんだろうと思う。学術的作業を通してできることは、古代ギリシャ哲学者が目指したような命題の真偽への接近ではなくて、(a)明らかな偽を排除した上で、(b)諸々のアイデアを並べることなんだろうと思う。
[PR]

by yoichikmr | 2010-01-04 12:53 | 記事
2010年 01月 04日

書く

■ 高校を卒業して10年。2010年は定期的に何かを書こうと思う。これまで2,3年間、ものを書く作業が疎かだった。今にして思えば当然なのだが、その間の俺は、自分なりの考え方やものの見方が確立しておらず、逆にそれを確立しようとしている真っ只中だったから、「まずインプットが先、アウトプットは未だ」という意識があった。同じく、何か書くなら十分に推敲を重ねた、アイデアに満ちた文章を書きたいという思いが常にあった。だから、この1,2年間に書きためた文章のテーマが20近くに及ぶにもかかわらず、ただのひとつも完成に至っていない。翻って、それは「インプットが先、アウトプットは後」という俺の過去1,2年の様を物語っている。

■ アメリカでの学生生活を2年半終えて、こちらでのPhD課程も(規定の期間ではないのだが)一応半分を越した。初めの2年間のインプット作業を終えて、俺の日常的な作業は、選択と解釈の繰り返しになった。何を考えるかを自分で選択して、しばらくしたらそれを振り返って自ら解釈する。この過程にノウハウはないし、答えもない。大海に出て、どちらへ向かって帆を立てるかというのと同じこと。ものを書くことでその軌跡を残すことは、選択と解釈の過程を円滑にするし、将来何かに迷ったときの道しるべとなるはず。書くことが思考を活性化してくれれば嬉しい。

■ 書くことをしないと、思考が堂々巡りする。気づけば、昨日考えたことを今日考えたりしている。同じテーマやアイデアについて、何日も何週間も断続的に考えていたりする。それ自体は無駄なことじゃないんだが、毎回振り出しに戻るのはいかがなものか。やはり、思考の軌跡を残すことで、今日と明日の思考を円滑に繋げたい。
[PR]

by yoichikmr | 2010-01-04 09:19 | 日記