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2010年 02月 19日

起業家精神と寡頭制資本主義

■ 2009年11月下旬に米国ワシントンDCの世界銀行で行われた会議のなかで、経済成長へ繋がる起業家精神(Entrepreneurship)について議論されたパネルディスカッションのビデオを見た。実に秀逸、かつ有益なので、ここに記す。

注意:ここでは、英語で話されるEntrepreneurshipを「起業家精神」として翻訳する。Entrepreneurshipは精神のあり方を問うだけではないので、不完全な訳だが、適当な訳を思いつかないので「起業家精神」で代用する。

■ 参加者のひとりであるニューヨーク大学スターン・ビジネススクールのウィリアム・ボウモル(William Baumol)教授は、起業家を二種類に分けるべきだと言う。ひとつは革新的起業家、もうひとつは複製可能な起業家だという。革新的起業家は経済全体の成長を加速させることに貢献し、複製可能な起業家は飢える人たちを貧困から救うのに貢献するという。

■ ボウモル教授のコメントが鋭さを増すのは、彼が起業家精神の教育について言及したときだった。彼は、教育によって起業家を生み出すことはできるのかと問う。社会が起業家を育てることはできるのかと問う。社会と経済の持続的発展を企図するとき、このような問いはわれわれが最も知りたいものだ。これらの問いに対して、ボウモル教授は一種の否定的な意見と古代中国の例からの示唆を紹介している。

■ 教育は、起業と経営に必要な知識を教えることによって、起業家を複製させることができるかもしれないが、他方で、革新的企業家の登場の芽を摘んでしまうかもしれない、とボウモル教授は言う。ビジネススクールにおいて教えられる起業家精神は、その意味では破壊的かもしれないという。ビジネススクールで教鞭を取る一教授の言葉として捉えなおすと、この意見の持つ意味は大きい。

■ ボウモル教授は、古代中国で行われていた官僚登用試験(おそらく科挙のこと)に言及し、受験者が文献や先生の言葉をそのまま記憶してでも試験に合格しようとするこの制度が、当時の中国人エリートの創造的能力をおそらく破壊していただろうと言う。そして、当時の中国では、他国と比較しても数学者の登場が非常に稀だったと言う。ここでは、数学者が創造的能力の代名詞として暗に仮定されているのだが、驚くことに、稀にしか現れなかった中国人数学者は、皆、官僚登用試験に不合格だったらしい。過度な競争に直面せざるを得ない官僚登用試験に労力と資源を費やさなかった者だけが、創造性と発想力を開花させることができたのだろう。

■ ボウモル教授は、起業家精神の教育だけでなく、成功する起業家の特質にも注目する。成功する起業家は、彼ら自身が強力なロビー活動家となることによって、彼らがプレイするゲーム自体のルールを変えてしまうと言う。これは因果関係を指摘しているわけではなく、相関関係を言っているに過ぎないのだが、経済の重要な一面を捉えていると思う。起業家の成功は、己のプロジェクトの成功そのものから来るだけでなく、市場や制度などが彼らの好むものになることからももたらされるということだ。起業家が市場に参入するための障壁は一概に言って低くない。起業家がこの障壁をいかにして乗り越えるかによって、この起業家自身の成功が決まるだけでなく、それは最終的には、経済全体のその後の成長経路をも決める。起業家の成功が社会への貢献になるのだとすれば、彼らがロビー活動を通して社会に働きかけることは、彼らの本業と無関係なことではない。

■ このパネルディスカッションを見ていて最も面白かったのは、このボウモル教授のコメントとは別にもうひとつ、ハーバード大学経済学部のアンドレイ・シュライファー教授のコメントだった。シュライファー教授は、全米経済学会が2年に一回45歳以下の経済学者を表彰するジョン・ベーツ・クラークメダルを受賞しているほどの大学者で(ノーベル経済学賞より難しいと言われる)、特に、規制・金融制度・法律・官僚制など、起業家精神を取り巻く制度の側面から起業活動を研究をしてきたことが有名だ。

■ 会場からの質問として、文化的側面が起業家精神に影響を与えることがあろう、例えば、日本の「失敗を許さない」文化は、より創造的な起業家精神を生むのにそぐわないのではないか、という質問があがったときのシュライファー教授のコメントが興味深いので、少し長いが、ここに載せる。
I find the comment about Japan to be extremely humorous... I started as an economist in mid 1980s, and some of you may recall that at that time, Japan could do no wrong. It was a most productive, most entrepreneurial, most financially sophisticated, most manegerially advanced country in the world. And every institutions it had, from marketing to accounting to whatever else it had, was absolutely the best there could ever be. And that, of course, was a complete diversial to what people believed about the Asians in 1950s, which was that the Asian culture was unsuitable for entrepreneurship, and economic development. So, I think we need to be... it's absolutely true that what we need to think about when we try to understand the basic sources of growth... it's important to appreciate that just how people do it in various countries is going to be different. They are going to be countries with different financial systems, and different allocation of activities between super-large firms and small entrepreneurial firms and so on. So, what we need to think about is, it's actually [someone] said, what exactly it is that the South Korea and Israel and US and the Northern Italy have in common that they create this massive entrepreneurial equal systems... It seems to me that once you try to figure that out, I think the answer, at least to me, that you end up with is that, to put it crudely, it all have some smart guys. It all have some people who are Gauss, who can put things together, and sell it. I think that's the central point to keep in mind.
シュライファー教授らしからぬほど要領を得ないコメントだが、要するに、よりよい制度とそれを生み出す賢い人たちがいることが重要であって、文化的差異は重要ではないということだ。思うに、われわれは皆、このことを常に覚えておかないといけない。産業の発展が起こるのは、その国や地域に住む人々が特殊な能力をもっているからではない。本質的なことは、諸々の能力を持ったさまざまな人たちが、己の望むようにその能力を発揮するための制度を構築するということだ。日本経済が、特に製造業が、戦後において世界でも稀にみる成功を収めたのは、日本人が器用だったからではなく、日本人が勤勉だったからでもなく、ひとえに個々人が能力を発揮できる環境が整っていたからなのだ。

b0056416_1356562.jpgでは、われわれはどのようにして、企業家精神の発揚にとってよりよい制度や環境を作り出すことができるのか。世界銀行のパネルディスカッションはそれを議論するところまでは行かなかったが、座長を務めたカウフマン・ファウンデーションのロバート・ライタン氏は、ボウモル教授との近著"Good Capitalism, Bad Capitalism, and the Economics of Growth and Prosperity"の中の議論を紹介してパネルを終えている。彼らは、資本主義をいくつかのタイプに分類し、寡頭的資本主義が最も悪いシステムであると議論している。寡頭的資本主義とは、ごく少数の人や組織が権力を握る資本主義のことだ。ライタン氏らの議論では、これに対する解決策は平和裡の革命しかないという。

■ ライタン氏らが議論する寡頭制資本主義は、奇しくも今日の世界経済に蔓延していると言えるかもしれない。少数の勢力が権力を牛耳ることは特に金融市場で起こりやすく、それは現実に過去四半世紀にアメリカを中心に起こっていたと言えるかもしれない。そして、われわれは今、その寡頭的資本主義の醜態の一部を目撃しているのかもしれない。今後、世界の金融市場がどのように整備されていくかはわからないが、このような寡頭制の登場を抑制することができるのかということ、つまり権力をよりよく制御できるのかということが今後の世界経済の課題になるだろう。

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- Conference on Entrepreneurship and Growth
November 19-20, 2009 - MC2-800 - World Bank, Washington DC

- PANEL: Promoting High-Growth Entrepreneurship (VIDEO)
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by yoichikmr | 2010-02-19 13:37 | 記事
2010年 01月 25日

オバマ政権の医療保険制度と景気刺激策

■ 先週19日火曜日、米国マサチューセッツ州で行われた上院議員補欠選挙で、共和党のスコット・ブラウンが選出された。この選挙には、下院に提出されていた全国医療保険制度に関する法案(Healthcare Bill)が上院で可決されるかどうかがかかっていた。今回の選挙で共和党議員が選出されたことで、Filibusterと呼ばれる嫌がらせ行為(答弁をする議員がトイレから出てこない、などw)を強制終了できなくなるらしく、この法案が上院を通過することが困難になった。上院100議席中60議席を確保しないとFilibusterを排除できないらしいが、今回の選挙で民主党は60議席を割った。

■ 米国は全国共通の医療保険制度を持っていないが、マサチューセッツ州は州独自の医療保険制度を持っている(俺も強制加入させられている)。州独自の医療保険に加えて、全国共通の医療保険も始められたら、マサチューセッツ州民にとってプラスとならないと見られていたようで、だから、選挙に投票した人たちは全国共通の医療保険を嫌って共和党を選んだと見る人もいる。

■ しかし、今回の選挙の結果は、医療保険システムに対してマサチューセッツ州民が「待った」をかけたというより、発足以来ちょうど1年のオバマ政権の経済刺激策に対する「待った」と評価する向きが多い。

■ オバマは2008年11月の大統領選挙時、マサチューセッツ州で26%ポイント差で勝ったが、今回の上院補欠選挙では5%ポイント差で負けた。大統領選のときバージニア州では6%ポイントで勝ったが、2009年11月の州知事選では18%ポイント差で負けた。大統領選ではニュージャージー州は16%ポイント差でオバマの勝ちだったが、2009年の州知事選では4%ポイント差で負けた。2010年は、11月に大統領選中間選挙も控えていて、オバマ政権に対する中間評価が続くことになるが、過去数ヶ月の選挙結果を見る限りでは、米国民のオバマ政権に対する評価は辛い。
President Obama carried Massachusetts by 26 points on Nov. 4, 2008. Fifteen months later, on Jan. 19, 2010, the eve of the first anniversary of his inauguration, his party's candidate lost Massachusetts by five points. That's a 31-point shift. Mr. Obama won Virginia by six points in 2008. A year later, on Nov. 2, 2009, his party's candidate for governor lost by 18 points—a 25 point shift. Mr. Obama won New Jersey in 2008 by 16 points. In 2009 his party's incumbent governor lost re-election by four points—a 20-point shift. [The New Political Rumbling: Massachusetts may signal an end to old ways of fighting. -By PEGGY NOONAN (Jan 22, 2010)]

■ オバマ政権の景気刺激策は、過去20年間の(特に90年代の)日本の景気対策と同じく、公共投資(道路工事など)に向かっている。これに対して、ハーバード大学ケネディ行政大学院のアルバート・アレシナ教授とシカゴ大学ビジネススクールのルイジ・ジンゲイル教授は、消費者がリスクをもっととることで、民間企業の投資が増えるようにしないといけないと説く [Let's Stimulate Private Risk Taking: Tax cuts are the way to nudge capital toward productive uses -By ALBERTO ALESINA and LUIGI ZINGALES (Jan 21, 2010)]。

A. 2009年以降のすべての投資に対して、キャピタルゲインへの課税を一時的に(少なくとも2年間)停止する。
B. キャピタルロスは、大部分税額控除対象にする。
C. 2009年に行われた資本への投資と、研究開発への投資をすべて税控除する。

民間貯蓄が諸々のファンド(特にMutual Fund)から株式投資へ流れることを期待している。らしい。当然、貯蓄がそんなにない人たちも救済できないといけない。アレシナとジンゲイルによると、失業補助と減税を実施するほうが、公共投資をするより効果的なようだ*。
Many are concerned about what we can do to help the poor weather this crisis. Unlike during the Great Depression, we have an unemployment subsidy that protects the poor from the most severe consequences of this recession. If we want to further protect them, it is better to extend this unemployment subsidy than to invest in hasty public projects. Furthermore, tax cuts have a much better effect on job creation than highway rehabilitation. [Let's Stimulate Private Risk Taking: Tax cuts are the way to nudge capital toward productive uses -By ALBERTO ALESINA and LUIGI ZINGALES (Jan 21, 2010)]

彼らの議論の根底にある前提は、今回の経済危機が金融サイドからのみ発生していて、実物サイドは元凶ではないということだ。そして、それは正しい。サブプライムローンがクレジットスワップを通じて信用市場を揺るがした結果、信用収縮(Credit Crunch)が起きている。信用市場は、投資信託などの中間投資家を経て債権者から債務者へ流れる間接的信用力を失っただけでなく、債権者から債務者への直接的信用力をを失った。この一連の流れの中に、技術的な問題は一切入ってこない。

■ 当然、信用市場の活況を取り戻すために、金融市場制度をより安全にしないといけない。今回記事に取り上げたオバマ政権の政策とは別に、オバマ大統領は金融市場、とりわけ銀行制度の改革に取り組んでいる。「大きすぎて倒産できない(Too big to fail)」というアイデアが大手銀行の救済をサポートしているが、それだけに、過去1年半の間、銀行の上級管理職が多額のボーナスを手にしたことに対して、民間の心理的反発はとてつもなく大きい。先週は、大手銀行の上級管理職の2009年度ボーナスが報道された。来週には、これらの銀行上層部を含め、世界中の財界・政界の人たちがスイスのダボスで経済会議に参加する。今後の展開にさらに注目したい。

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*: 公正を期すために記すと、経済学者の間でもこの点にコンセンサスはない。例えば、2008年にノーベル経済学賞を受賞したプリンストン大学のポール・クルーグマン教授は、オバマ政権の経済刺激策としての公共投資は「全く足りていない」と発言しており、さらなる公共投資を呼びかけている。
About the stimulus: it has surely helped. Without it, unemployment would be much higher than it is. But the administration’s program clearly wasn’t big enough to produce job gains in 2009. Why was the stimulus underpowered? A number of economists (myself included) called for a stimulus substantially bigger than the one the administration ended up proposing. According to The New Yorker’s Ryan Lizza, however, in December 2008 Mr. Obama’s top economic and political advisers concluded that a bigger stimulus was neither economically necessary nor politically feasible. Their political judgment may or may not have been correct; their economic judgment obviously wasn’t. [What Didn’t Happen -By PAUL KRUGMAN (Jan 17, 2010)]

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by yoichikmr | 2010-01-25 22:00 | 記事
2010年 01月 18日

社会における情報制御

■ NHKが放送した「クローズアップ現代:変わる巨大メディア・新聞」を見た。新聞産業は過去2,3年間で大きく変質したと言う。

(1) 売り上げが大きく下落した。
(2) それを受けて、雇用者数(記者数)を減らした。
(3) インターネットを媒介として記事を配信し始めた。
(4) 最近では、自社自ら記事を書くのではなく、記事を他社から買い上げるスタイルへの転換を図っている。

■ まず、新聞産業に起こっていることの表層を考えたい。次に、この事例がより一般的な社会構造に与える影響を考えてみる。

■ (1)は、番組内では、(a)情報技術(internet)の登場と、(b)消費者の新聞離れによるとされていた。(a)の効果は、新聞産業に限らず、現代のほぼすべての産業で進行中だ。新聞業界は、その流れに乗って、(3)を促進しないといずれ消滅する。(b)の効果は、俺が考えるに、消費者の好みそのものが変わってしまったとする見方と、好みは変わっていないが、消費者の置かれている立場(所得や労働状況など)が変わったので新聞需要も変わったとする見方に分割できる。

■ 売り上げの下落(1)の理由が情報技術(a)なのであれば、問題は深刻ではない。新聞産業の調整が進めば、いずれ業界は活況を呈す。もし理由が消費者の新聞離れ(b)であると、話はややこしくなる。なぜかというと、消費者の新聞離れ(b)というのは、社会の中で情報の占める位置が変化しているということであって、それは、情報が社会の中で持つ意味が大きければ大きいほど問題となる。俺は特に、この問題を下でさらに掘り下げたい。

■ 記者解雇(2), インターネットの活用(3), 記事の外注(4)の3つは、(1)を受けて、新聞社がどのように対応したかを表している。そのどれをとっても、新聞産業に特殊なことは何もない。

■ 記事の外注(4)に関しては、経済学者の典型的な観点からすると、企業解体とアウトソーシングが起こっていると言える。これらは、実際、ひとつの現象の裏と表だ。一般的に、企業は非効率な部門を発見すると、その部門をより効率的に運営する他社に売却し、その部門の仕事を外注(アウトソース)する。この企業は、非効率部門を売却して、経営により長けた部門に集中することで、経営効率を改善する。一方で、買収された部門は、その部門の経営により長けた新会社の傘下に組み込まれることによって経営効率を改善する。こうして、この一連の企業解体とアウトソーシングは社会的に見て望ましいということになる。

■ ここでは、記事の外注(4)を、生産組織の変化という上記の見方で捉えるのではなくて、社会全体の中の情報制御の変化という見方で捉えてみたい。(実は、組織の形態が情報制御にモロに影響するはずなんだが、その点はしばし置いておくことにする。)

■ 社会は、それ自体が情報処理システムだといえる。個人個人に色づけされた情報は、特殊なシステムを媒介して、時には収集され、別の時には配分される。情報は人と組織の行動を変えるから、その制御は、社会全体の生産技術に影響を与える。情報を制御する特殊なシステムの例を挙げると、市場、民主主義、学校、宗教など、枚挙に暇がない。実際、社会のあらゆる組織と制度はすべて情報処理システムだと言っていい。ここで考察するのは、個別のシステムがどのように働くかということではなくて、情報の制御そのものがいかに社会を形作っているかということだ。情報がいかに制御されているかということは、資本主義と社会主義などの例を持ち出すまでもなく、結果的に社会を特徴付けている。

■ 情報産業は、無限に要素が存在する情報空間からその一部分を取り出すサービスを行う。つまり、情報産業は、情報をコンパクトにする。情報産業は一般的にメディアと呼ばれているが、そのメディアとその他の情報制御システムの違いは、情報が集約される方法が異なるということだ。メディアは己の目的に従って情報を選別する。メディアはそれ自体が目的を持つ意思決定主体なので、彼らは彼らの目的に見合った情報を選別して提供する。一方で、市場や民主主義などの制度は、それ自体が情報選択をすることはない。これらの制度の下では、情報保有者の持つ情報は、制度を介して無目的に集約され、再分配される。

■ 情報産業の退出(あるいは変質)は、潜在的な情報選別バイアスを除去する。情報産業が価値を見出しながら、消費者が価値を見出さない情報(バイアス)を排除する。バイアスを排除する結果、消費者はそれまでに発見不可能だった情報にアクセス可能になる。過去10年から15年の間に情報技術が消費者にもたらした便益はこれにつきる(googleしかり、twitterしかり)。しかし、逆に、消費者は自ら情報を選別する必要があるので、情報探索コストを支払わないといけなくなる。

■ 上記の情報産業の変化の文脈に戻ると、情報産業の変質は、生の情報源から情報消費者までに少なくとも2回の情報選別プロセスを含むことになり、情報選別プロセスが一回しかなかったときと比べて、潜在的な情報選別バイアスは軽減される。例えば、これまで読売新聞は、自ら抱える記者が現場へ急行することによって情報を収集していた。そこでは、情報を吟味する機会が一度しかなかった。一方で、今回の情報産業の変質によって、一度ローカルな新聞社が記事を書いた後に、読売新聞がその記事を買うことになり、情報選別の意思決定が一回多くなっている。今後の読売新聞は、ローカルな新聞社が記事にした情報の中からしか記事を選べないが、他方で、消費者に届く情報は、異なる目的に従う別々の意思決定主体の選別を潜り抜けることになり、より精度を増した記事が期待できる。

■ 望ましいのは、一度別の意思決定主体の解釈(情報選別)を経ることによって、最終的に消費者に届く情報が解釈の度合いを増していることだ。情報を横流しにしているとしたら脳がない。一度情報をクッションさせることによって、多様な情報をもう一度総括し、より一般的な情報をそこから引き出すということ、それが解釈であるとすれば、そのような解釈の度合いを増すことが望ましい。この過程を情報の精密化と呼べば、情報は粗いものからスタートして、最終的には、消費者が利用可能な水準にまで精密化されていないといけない。それは、原油がさまざまな精製過程を経てガソリンなどの利用可能な消費財になる様子と似ている。情報も、同じように、精密化が必要だ。

■ しかし、情報の精密化を実行することは難しい。一面では、情報操作と刷り込み(インプリンティング)が簡単だからであって、他面では、情報選別にチェックとバランスが利かないからだ。情報選別を厳しく監視することができないから、中途半端に一般化された情報が氾濫し、消費者の行動に歪みをもたらす可能性がある。巷でよく聞くメディア批判の元凶は、情報媒体をチェック(監視)できないことにある。消費者は、いかにメディア情報に不満を持っていても、情報媒体をその役割から引きずりおろすことができない。したがって、情報操作に関する権力はすべて情報産業が牛耳ることになり、それはバランスを欠くことになる。このような状況下では、情報産業による情報操作は簡単に行われ、したがって、消費者は簡単に刷り込まれる。

■ これを打破するためには、情報産業に関するよりより制度が必要だ。これまでの100年間で、世界は多くの情報規制を経験してきた。ソ連や中国は言うを待たず、戦時中の日本でさえ情報規制がいかに徹底され、いかに個々人の諸々の機会を奪ってきたかをわれわれはよく知っている。先週発表されたGoogleの中国市場からの(事実上の)撤退は、情報産業に関する制度の現在進行形の問題を提供してくれている。一方向の情報に歪みを作ると、逆方向の情報にも歪みをもたらすはずだ。中国政府当局は、国民に流れる情報を意図的に過度に制御することによって、消費者の行動の歪みをもたらし、それを集計した情報は逆に歪んだ情報しか中国政府当局に届けない。すべてが欺瞞に彩られた社会は、誰にとっても望ましい社会にならない。

■ しかし、よりより制度を構築することがこれまた難しい。制度構築に際して、制度を作る人たちの持っている情報を効率よく収集して分配する制度を持っていないからだ。すでに情報選別権力を持っている主体は制度の変革に抵抗するだろうし、制度が少しでも変革できた場合は、逆にそれが新しい権力者を生む下地を作ってしまう。だから、制度は一度に構築できるものではない。制度の改善と(情報選別)権力の分散、さらに情報保有者が情報保有から受ける便益の軽減の3つが同時に進まないといけないし、それは逆に漸進的にしか進まないはずだ。このプロセスは実現不可能に見えるが、過去数百年の間に、人類は金融制度という資産価値の流れを制御するよく似た制度を構築してきた。いまだ不完全かもしれないが、情報制度が金融制度の経験から学べることはあるはずだ。

■ これまでの社会科学は、情報が個人や社会の間を流れていく様子を量的に明らかにしてきたが、どのような情報が流れていくかという質に関することはいまだわからないことが多い。しかし、社会が情報制御システムなのだとしたら、「どれほど」情報が流れているのかということと同じくらい、「どのような」情報が流れているかということを知り、それを制御することが重要だろう。量と質の両方においてより良い情報の制御がなされる社会を作ることは人類社会の今日的課題だろうと思う。
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by yoichikmr | 2010-01-18 15:54 | 記事
2010年 01月 18日

乳幼児への教育投資

b0056416_1330317.jpg"Stimulating the Young" @ The American
by James Heckman





■ 古い記事なのだが、アイデアを呼び起こす記事なのでここで取り上げてみる。記事はシカゴ大学のジェームズ・ヘックマン教授によるもので、2008年以降の経済危機の中でオバマ政権が繰り出す経済刺激策の代替案として、乳幼児(0歳から5歳児)教育への投資を呼びかけている。

■ 記事の中では、最近の研究で明らかになってきている乳幼児教育への投資の効果が繰り返し強調されている。俺の知る限り、この一連の研究をしているのはヘックマンのグループだけなので、彼らのここ最近数年間の研究成果をまとめた記事だと見ることもできる。

■ ひとつの研究成果は次のように記述されている。
One of the most notable long-term studies is the HighScope Perry Preschool project, which commenced in 1962 and tracked the impact of two years of high-quality preschool on very poor African-American three- and four-year-olds living in Ypsilanti, Michigan. After those two years, the kids entered regular schools and have been followed for nearly 50 years by researchers.

Children in the program were less likely to commit crimes, less likely to drop out of school, and more likely to be productive, perseverant, socially engaged citizens with higher wages. As the years pass, the data reveal less teen pregnancy for girls, reduced absenteeism for boys, and less need for special or remedial education.

1962年にミシガン州のイプシランティで始まった乳幼児教育プログラムは、3,4歳の貧しい黒人児童に2年間の教育を与え、その後の児童の経済的・社会的パフォーマンスを約50年に渡って追跡している。記事によると、このプログラムを受けた児童は、犯罪を犯す可能性が低く、学校を退学する可能性も低く、生産的で忍耐力があり、より高い賃金を稼ぐ社会の一員になるという。また、歳を重ねても、女子は10代で妊娠することがなく、男子は引きこもりにならず、特別授業や補習を必要としないらしい。

■ また別の研究によると、乳幼児への投資は、高い教育水準、健康水準や社会的地位などを通じて、年率8から10%の投資効率があるという。
Research data clearly shows that investment in early childhood development for disadvantaged children provides an 8 percent to 10 percent annual rate of return through better education, health, and social outcomes

■ これまで、経済学サイドからの見た教育投資への社会的便益というのは、大部分、高校や大学教育への公的投資が個々の学生のその後の経済的・社会的成功をいかにもたらすかという観点で考察されてきた。しかし、これらの研究の多くは、特別な教育を受けた児童が後の人生において、まさに「教育を受けた」ことを戦略的に利用することによって経済的・社会的成功へ至ろうとする効果を、意図的に、ときに無自覚に考慮からはずしてきた。もし小さな集団にのみ教育投資をするのであれば、これらの集団は「他の集団を出し抜く」ことで、後々経済的・社会的な成功を収めることができるかもしれない。しかし、一方で、もし一国全体に教育投資が同じように行われるのであれば、教育による戦略的な差別化は不可能となり、子供たちが生まれてから小学生になるまでの5,6年間に作られた格差はそのまま義務教育(中学・高校)卒業まで残り続けることになる。

■ ヘックマンの提唱する乳幼児童教育への投資は、世代間で継承される所得格差の連鎖を断つという哲学を持っている。金持ちは金持ちであるがゆえに自分の子供に多くの教育投資を施し、貧乏人は貧乏人であるがゆえに自分の子供に教育投資をできない。結果的に金持ちの子は金持ちになり、貧乏人の子は貧乏人になる。これが世代間で継承される所得格差のシナリオだ。このような固定化された所得分布のもとでは、社会が分断されてしまう可能性があり、経済的に見て問題があるだけでなく、生まれたときから機会に差があるという意味で、道徳的にも問題となりうる。ヘックマンは、0歳から5歳までの乳幼児のなかでも、特に経済的に貧しい家庭や社会的に抑圧されている可能性のある黒人家庭の子供に重点的に投資をすることで、義務教育が始まる時点での児童間の格差が是正されるべきであるとする。

■ 非常に美しい議論だが、問題があるとすれば、その実践的方法だろう。特に、これらのアイデアを政策に移すときの政治的衝突を乗り越えられるかどうかが問題となる。一般的に、特定の世代のみを益する政策は、別の世代から賛同を得られないことが多い。例えば、昨今の民主党の高等教育無償化論議は、この政策から直接恩恵を受けない世代から批判を受けていると思う。アメリカの場合、高所得者層の住む社会と低所得者層の住む社会とは多くの場合隔絶されており、乳幼児教育が高所得者層へもたらす便益は無視できるほど小さいかもしれない。そうすると、この階層はこの政策に賛成票を投じず、実行に移されることはなくなってしまう。この点をクリアすることが、よりよい教育システムの実現のために必要だろうと思う。
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by yoichikmr | 2010-01-18 14:37 | 記事
2010年 01月 11日

なぜ経済は崩壊するのか -問いの転換-

b0056416_112549.jpg息抜きがてら本棚にあった本を読み始めてみたら、面白いアイデアを発見したので書き残しておく。(過去に読んでるはずなのに全く覚えてない。居眠りしながら読んでたんだろうな。)

Douglass North, John Wallis, and Barry Weingast,
Violence and Social Orders -A Conceptual Framework for Inerpreting Recorded Human History-
2009, Cambridge Univ. Press


■ 彼らは経済成長について次のように言う。すなわち、「低所得・中所得国の経済が貧しいのは、彼らが(1)高所得国経済より頻繁に所得減少の期間を経験しているからであり、(2)その期間の所得減少の程度は高所得国経済より深刻だからである(pp.6)」。

■ 重要なのは1点目で、著者は、低所得・中所得国経済は先進国経済よりも高い経済成長率を実現することがあるにもかかわらず、その成長は長続きしないばかりか、せっかくの成長をマイナス成長によって相殺してしまうことをデータから示している。

■ 通常、経済学者は次のように問う。先進国は所得水準を向上させることができたのに、ほかの国がそうできないのは何故か。この問いは、これまで多くのアイデアを回答として生み出してきたのだが、次のように問いを変えると、また違う回答が可能な気がする。つまり、先進国がマイナス成長期間を減らすことができたのは何故か。さらに、途上国がマイナス成長期間を長くしてしまうのは何故か。
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by yoichikmr | 2010-01-11 11:43 | 記事
2010年 01月 04日

統計学の発展と科学への懐疑

■ 20世紀を特徴付けるのは物理学の発展だと言われる。あるいは、社会科学に目を向けると、経済学の発展が20世紀の象徴だと目されるかもしれない。これらの学術的発展を下から支えたのは、19世紀末に、それまでの数学的知識を応用する形で勃興してきた統計学である。統計学は、過去1世紀に数多くの科学的知識(サイエンスでは物理学、化学、生物学、工学など、社会科学では経済学、社会学、政治科学など)が生まれたとき、現実に観察されるデータから「命題(仮説)の確からしさ」への論理的経路を提供してきた。別の言い方をすると、統計学は経験を知識に変えてきた。その意味で、20世紀を真に特徴付けるのは統計学であって、人類史の観点に立てば、この「統計革命」こそが重要な事件だろう。

■ 物理学や経済学に限らず、学問の中枢には観察可能な現象間を繋ぐ論理的パイプとしての理論があるけれど、この理論(演繹的推論)は必ずしも真であるとは限らない。なぜかというと、理論が系(けい)内部で論理的に整合的であるとしても、その系自体が、人間の認識と無関係に存在する真理(もしそれが存在するとするなら)と整合的であるかどうかはわからないからだ。地動説と天動説の二つの理論はその良い例だろうと思う。どちらの理論も体系内部では整合的だったが、コペルニクスとガリレイは、天動説が拠って立つキリスト教的自然観を疑い、丹念な観察を重ねた結果、地動説が正しいことを証明した。学問体系の基礎を作る諸概念が実際と相容れない場合、その上にたつ理論は真理として受け入れられることはない。

■ 観察は、系の確からしさと理論の確からしさとを精査する。系の確からしさが疑われ、結果として新しい系が生み出されれば、学問体系そのものが大きく生まれ変わる。これはThomas Kuhnが言う「パラダイム」の変化。一方で、大抵の場合、理論の確からしさが疑われる。観察によって理論が反証されれば、その理論は二度と知識として認められることはない。それでは、系内部で論理的に整合的な理論が観察によって反証されなかった場合は、われわれはその理論を新しい知識として認めてよいのだろうか?

■ 現実の学術世界では、こういう作業を経たアイデアは「知識」として共通了解されていると思う。けれども、俺はここでKarl Popperの言う反証可能性という考え方の持つ示唆に忠実であるべきだと思う。「反証可能性の示唆すること」とは、帰納法への懐疑であり、さらに(誤解を恐れず)言えば、経験主義の上に立つ(すべての)科学への懐疑だ。この場合の懐疑は、「消極的な懐疑」を意図していて、それはむしろ不可知論的立場に近い。すなわち、経験的にひとつの命題の真偽が確かめられたとしても、それが別の観察によっても同じく確かめられるかどうかは分からない(不可知)という立場だ。この立場の下では、たとえあるアイデアが数百年の間棄却されることなく生き続けてきたとしても、それはひとつの深刻な反証の前では無力となりうることを意味している。特に、社会科学は、複製することが事実上不可能な実験装置(例えば、歴史)上でしか観察することができないから、ひとつの標本上で命題が真とされても、別の標本上で命題が真となる保証はない。観察者(研究者)に観察不可能な要因が、命題の真偽判定に予期せざる影響をもたらすかもしれない。事実、こういう競合しあう実証的結果は豊富に転がっていて、だからこそ、学会内では「論争」が起こったりする。

■ つまるところ、理論的方法と経験的方法のどちらか、あるいは両方を取ったところで、それはひとつのアイデアに過ぎない。「理論と実証が学問進化の両輪」とする論は不完全だ。学問は、演繹的であれ、帰納的であれ、ひとつの考え方を提示することしかできず、結果的に蓄積されるものは、真かもしれないものと、真ではありえないものとの区別なんだろうと思う。学術的作業を通してできることは、古代ギリシャ哲学者が目指したような命題の真偽への接近ではなくて、(a)明らかな偽を排除した上で、(b)諸々のアイデアを並べることなんだろうと思う。
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by yoichikmr | 2010-01-04 12:53 | 記事
2009年 12月 24日

International Inequality と Global Justice

今日学術分野横断的に最も関心が集まっているのは国際格差(international inequality)かもしれない。ここに、最近調べたことをまとめておく。

経済学者は過去四半世紀に、国と国との経済的格差への関心を増した。その萌芽となったのは1980年代の内生的経済成長理論の進展だろうと思う。経済学者は、先進国と発展途上国という二つの相異なる経済状態へ至る要因を学問体系の内部から考えることができるようになった。

また、現実に観察される経済現象から得たデータをもとに行う実証分析の手法が進展したことも、経済学者の開発問題への従事を後押しした。動的な状態変化である経済発展を数量的に分析するためには、一時点における経済の比較では不十分で、複数の経済状態を同時に眺めながら、経済状態が動的に変化する要因を探さないといけない。近年の計量経済学的発展はこういう研究上の方法論を経済学へ導入し、多くの経済学者をこの分野へ引き付けた。

このように、経済学は諸々の方法論上の発展によって、経済を技術的に前進させる諸要因を探り始めることになったが、他方で、発見された諸要因を元に「いかなる社会」が導かれるべきかという道徳に関する価値判断に関して、経済学は依然として微力である。おそらく古くは19世紀のワルラスやエッジワースの時代以来、経済学の骨子には功利主義と効率主義があるが、これ以外の価値判断基準を取り込むことができないでいる。功利主義とは、最大多数の最大幸福を標榜する価値基準で、幸福の総量が大きければ、それを社会の構成要素間で分配することで、社会的により望ましい状況へ近づくことができると考える。効率主義は、技術的に達成可能な幸福総量であるなら、それが達成されることが望ましく、諸々の理由で幸福総量が減少することは望ましくないと考える。

これに対する批判が過去50年に少なくとも2点あって、ひとつがセンによる「潜在能力」という考え方であり、もうひとつがロールズによる「公正としての正義」である。潜在能力のアイデアは、第一に、価値は多次元あり、功利主義が考えるような一次元の価値(例えば、経済的豊かさ)は不十分だとし、第二に、一部の価値は個人間で移転不可能だとする。一方、公正としての正義は、功利主義に新しい価値基準を導入することによって、その不十分さを修正する。具体的に導入される価値基準とは公正性のことで、これは、社会構成員によって暗黙のうちに賛同されるとされる。

センによる潜在能力は、近年の経済学では、純粋理論レベルから導入が試みられ始めている。第二点目の「移転不可能な価値」は、その名のとおり、移転不可能な効用として理論化され始めている。一方、ロールズによる公正としての正義は、近年の経済学では導入に成功していない。

注目すべきことは、このロールズによる公正としての正義("A Theory of Justice", 1971年)の概念が、経済学者も共有する国際的経済格差の考察に応用されているということだ。その骨子は、ロールズの理論を一国のものから世界のものへと拡張する。アイデアは、一国内で見れば、格差が拡大しないように是正がされるべきだと言うロールズ理論を応用し、世界レベルの観点に立てば、格差が拡大しないように貧しい者へ援助されるべきだというものである。ロールズのハーバード大学の弟子であるポッゲ(Thomas Pogge)は、先進国のひとは積極的に発展途上国の人々へ援助をすることが、公正としての正義の観点から要求されるとする。この考え方を、Global Justiceという(後日注:この分野に関する詳しい議論については International Justice - Stanford Encyclopedia of Philosophy を参照のこと(2011年1月31日))。

以上、経済学による国際格差への取り組みを基礎に、政治哲学が過去50年間に付加した思想を非常に簡単に要約してみたが、最後に、未だロールズとポッゲを完全に読み込んでいない段階で、これらに対する私見も残しておく。

第一に、国際的格差が政治哲学者にまでテーマとして取り上げられる現状を見ると、おそらくこれは人類にとっての今日的課題の最たるもののひとつだろう。国際的格差は、それ自体に意味があるだけでなく、グローバリゼーションという作用を通じて、国内格差にも影響を与えている。すると、議論は国際的場面で始まったにもかかわらず、ロールズ的な国内の場面に戻ってくる。その意味で、この思想的発展は一世代前からの不連続な変化ではなく、同一線上にある。

第二に、ロールズの一国内再分配はまだしも、ポッゲの国際間再分配は、それを実行する主体があいまいで、その結果、先進国に属する個人による自主的援助が求められている。しかし、この点は、一般的に言われる援助と同様、その動機がどこから生じるのかという点に謎を残す。第二次世界大戦以降の世界は、直接関係のない個人間で「いかなる統治機構をも超えて」行われる所得再分配(援助)を人類史上おそらく初めて開始したけれども、その行動をもたらす動機に関しては、われわれは確かなことを知らない。動機が重要となるのは、援助が結局のところ援助者を益して、被援助者を益さないということがあり得るからだ。

第三に、ロールズとポッゲの公正性という議論を与件とすると、社会が、一国家であれ諸国家であれ、戦略的に低発展状態に陥ってしまう可能性がある。先進国が国際的格差を拡大させすぎたときに、公正性の観点から途上国への援助(再分配)を道徳的に求められるのであれば、先進国の人々には、初めから中程度の発展に抑えようとするインセンティブが働く。このとき、効率性と公正性という二つの価値概念が衝突しあう。望ましい社会の姿を判断するための価値概念自体が衝突するとき、われわれはどのような選択をすべきなのか。道しるべとなる価値基準を、われわれは持ち合わせていない。
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by yoichikmr | 2009-12-24 10:17 | 記事
2009年 01月 17日

[雑誌記事] アメリカ経済危機


Don’t Repeat Japan’s Mistakes,
By Desmond Lachman for the American Magazine
Friday, January 9, 2009

On financial market reform, Obama should adopt the successful Swedish model rather than the failed Japanese one.


雑誌 the American は、現在最もセンスの良い経済雑誌。創刊されて2,3年と若いけれど、今後50年で確実に経済界の雑誌を一掃するはず。そんな雑誌から気になる記事をピックアップ。
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by yoichikmr | 2009-01-17 02:19 | 記事
2009年 01月 03日

笑い・漫才・麻生・金融危機・ヤクザ・実証研究・アフリカ

久々に書いてみる。久々に書くくらいだから、何か大事なことを書くんだろうと思うかもしれないけれど、特に大事なことなんてない。今この瞬間に思うことを書いてみる。

■最近、アメリカの笑いのほうが日本の笑いよりも面白くなってきた。俺は普段、夜寝る前の日付変更時刻あたりにNBCでやってるコメディ「Jay Lenoのtonight show」と「Conan O'brien のlate night」を見ている。立て続けに放送される二つのお笑い番組なんだが、特別なお膳立てをしたりはしない。自分の名前を番組につけているJay LenoとConan O'brienのそれぞれが、その日のニュースをもとに、時には毒舌を吐き、時には体を張ったギャグをかます。番組途中で登場するゲストは多彩で、映画俳優や女優はもちろん、物まね芸人から作家、さらには政治家まで登場する。全体を通して、この半年間ほど、共和党大統領候補ジョン・マケインの一挙手一投足を徹底的にネタにしていて、それがあまりに面白すぎたので、アメリカの笑いには奥手だった俺もすっかりアメリカンジョークに馴染むことができた。聞くところによれば、面白いコメディアンは他にもいっぱいいるみたいなので、これから少しずつ発掘していこうと思ってる。

■依然として、関西のしゃべくり漫才が俺の中での最高の笑いの形なんだが、今年のM-1を見る限り、「はて、日本の笑いはしゃべくり漫才じゃないほうに流れているんだろうか」なんて思う。2007年のM-1もレベルが低かったけど、2008年のM-1もレベルが低かったと思う。今年は特に、優勝者無しでもよかったんじゃないか?優勝したNON-STYLEは前から好きなコンビだけど、今回のネタはそれほどインパクトが無かった。M-1は2005年のブラックマヨネーズ優勝以来、年々期待はずれ度が大きくなってる。ちなみに、俺はボストン市内で日本のTV番組をDVDに焼いて売っている店で、M-1のDVDを1ドルで買った。入手するまで1週間以上かかり、その間日本の情報を遮断するのが大変だった。

■日本では、いろいろな人が麻生首相バッシングで忙しいみたいだけど、事情を良く知らない俺からすると、それはすごくナンセンスに映る。「彼はその器じゃない」というような言い方に、何か良い未来でもあるんだろうか。「麻生の代わりになるやつもいない、日本の政治はダメだ」という言い草に未来を作る力が備わってるんだろうか。そういうネガティブなことを言う日本人一人一人に俺は言いたい、「お前が良い日本を作れよ」と。人のせいにするんじゃなくて、自分自身が良い日本を作るために精一杯努力しろよと言いたい。自分の置かれたその場所で、今このときから、少しでも良いものを作る努力を始めろよと言いたい。そういう努力をしていたら、麻生首相のバッシングをしている暇なんてなくなるだろうし、問題の本質がどこにあるのかもっとよく見えるんじゃないかと思う。逆に言えば、一人一人がそういう努力をしていなければ、どんなに見識のある人が首相になっても、より良い日本にはならないんじゃないか。

■金融危機に翻弄される日本経済の姿を見ると、2つの意味で残念な思いに駆られる。第一に、日本人は「失われた10年」の教訓を世界中に伝えることが全くできなかった。1990年代の日本の不景気と2008年に発生した国際金融危機は構造が全く一緒という事実が示すとおり、国際金融危機の震源地だったアメリカは日本の教訓を全く学んでいない。それをアメリカの非と唱えるなら、そんなに楽なことは無い。実際は、日本の教訓をアメリカ人に教えることができなかったあらゆる立場の日本人の失敗なんだと思う。「海外出張です」と言って意気高揚してアメリカに来た金融マンや政府関係者、米国籍企業と取引する日本企業の会社員、アメリカの大学研究者と連携する日本人研究者。あらゆる立場の日本人が、アメリカ人と触れ合いながら、毎秒毎分のレベルで「日本の失敗」を説くことに失敗してきた。その結果が今回の国際金融危機なんだと俺は解釈している。第二に、日本は「失われた10年」の経験がありながら、この100年に1度の経済危機といわれる局面で主導的立場を取れていない。この20年間、日本人が必死になって理解しようとしてきたことは、なぜあれほど成功していた日本経済が、音を立てて崩れ去っていったのかということだったはずだ。この20年間に日本人が経験した苦労や挫折、惨憺たる思いを無にしないために、日本はこの危機で主導的立場を取るべきだ。しかし、それができていない。そこにもまた、国際的でミクロな局面でイニシアチブを取れない日本人の姿がある。今この期に及んでも、「日本の失われた10年間がいかに苦しいものだったか」をアメリカ人をはじめ世界の人たちに熱く語れていない。目を覚まそうぜ、日本人。俺たちひとりひとりが、自分たちの経験を語っていかなきゃダメだ。とりあえず、俺から始める。

■宮崎学の最近の一連のヤクザに関する著作は学術的観点から見ても、非常に水準が高いと思う。質の高さの源は大きく言って2点ある。第一に、歴史の教科書で語られることの少ない最貧困層・被差別層の人々に焦点が当てられている。彼らがなぜヤクザにならないといけなかったか、彼らはヤクザとして何をしてきたのかが詳細に分析してあって、その分析は、おそらく歴史の観点から見ても、経済学の観点から見ても学ぶべきことは多い。学校で習う歴史と巷に溢れる歴史本の多くを見ると、歴史を作ってきたのは著名人だけであるように錯覚する。真実はそうではなくて、彼らの影に隠れながら、実質的に歴史を作ってきた人たちがいるわけだ。宮崎が着目する最貧困層・被差別層はその例だ。第二に、ヤクザという現象の時間軸と空間軸を縦横無尽に動き回って、実に丹念に調査をしている。近代ヤクザの出発点を明治初期としながら、時代をさらにさかのぼって鎌倉室町時代からのヤクザの系譜を調べている。空間的には、九州・近畿・中国を中心として、明治初期に近代ヤクザが形成される様子がよく調べられている。結果的に浮かび上がるのは、今日のヤクザの典型像とその系譜とのギャップだ。系譜を理解することで、今日の典型像がより鮮明に見えてくる。

■2008年秋学期、一番楽しかったのは労働経済学を勉強していたときだった。初めて実証研究を体系的に勉強した。結果思ったこと、「実証研究はストーリーが明確で、研究の貢献が現実社会にすぐに適用されやすく、おもしろい」ということ。さらに、「反面、理論研究は、対象となる事象があいまいで、研究の貢献が後年覆される可能性が高く、つまらない」ということ。これまで理論研究ばかり追いかけていた俺にとってこの発見は目から鱗だった。例えば、俺が面白いと思った実証研究のひとつがこれ。シカゴ大学のTopel教授とテキサス大学のWard教授が1992年に発表した研究によると、アメリカ人にとって、新規就職後の最初の10年間の転職行動がその後のキャリア形成の基本になっていて、生涯賃金の3分の1はこの転職行動自体によって増えているらしい。何が面白いかというと、誰も実際に目や耳で観察することができない実態を、(そこそこ)高度な技術を使って発見しているということ、それから、その発見がまた別の実態を予測させるということ。

■2009年夏には、人生初のアフリカ旅行を計画しているんだが、アメリカからアフリカまでの旅行が実はすごい長距離だということがわかった。カタカナにすると「メ」を「フ」にするだけだが、ボストンからでも平気で12時間かかるらしい。値段も安いとは言えず、1000ドル位するようだ。アフリカ縦断は難しそうだ。ヨハネスブルグから米東海岸まで、飛行機で24時間くらいかかるっぽい。ここは、フランスを見習ってアフリカ横断するかと考えてみたけど、その場合、生きて帰ってこられない可能性が高くなる。はて、困った。
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by yoichikmr | 2009-01-03 08:44 | 記事
2008年 03月 04日

MPA/IDかPhDか (改訂)

今年2008年からyale大学の経済学部に就職するChris Blattmanが、自身のBlogでHarvard Kennedy School of Government (KSG)のMPA/IDプログラムについて詳細に評価をしている。記事では、「国際開発」に携わらんとする学生がKSGのMPA/IDを選ぶべきか否かについて、著者Blattmanと彼のKSG時代の同僚の意見に基づいて賛否両論が紹介されている。また、記事では、同様だが別種のMPAプログラムとの比較や経済学PhDとの比較も検討される。

Harvard Kennedy School of Governmentとは、近年日本で流行している国際公共政策大学院のはしりで、その中のMPA/IDプログラムとは、正式名称Master of Public Administration (International Development)が示すとおり、「国際開発」に焦点を絞ったプログラムである。Harvard KSG自体は、日本人留学生の書籍で紹介されている。

ハーバード・ケネディスクールでは、何をどう教えているか (英治出版MPAシリーズ) (英治出版MPAシリーズ)

杉村 太郎 / / 英治出版



しかし、この本はMPA/IDプログラムに関する記述が十分ではない。日本人が「国際開発」を国際的舞台で学びたいと思う場合、日本語による十分な情報はおそらく見つけられないだろうと思う。(というのは、俺自身が1年半前の出願時に発見できなかったから)。今回紹介するBlattmanの記事は、「国際開発」に関心を持つ世界中の人に有益な情報を提供すると思う。

b0056416_1147699.jpg著者のBlattmanは、6,7年前にHarvard KSGでMPA/IDプログラムに所属したあと、UCBerkeleyで経済学のPhDを修了している。彼の言葉は、経済学を根幹に据えるMPA/IDとPhDとの間で迷う人に、双方のプログラムの比較をより説得的な形で与えてくれる。彼は両方のプログラムをよく知っているからだ。もしMPA/IDとPhD(econ)との間を真剣に迷う人がいたら、KSG(MPA/ID)のDirecterを務めるDani RodrikによるBlattmanの記事へのresponseにも目を通しておいた方がよい。Rodrikは、Econ PhDは将来大学で助教授として研究をしていきたいと考える人が行くべきだという見方をしている。すなわち、実務と研究との間で揺れる学生はKSGへ行くべきだという考えが裏にあると思われる。このRodrikの考えに対して、Blattmanは、実務を志す人間がEcon PhDに行くことは悪いことではないと反論している。ちなみに、Rodrikは、プリンストン大学にあるKSGタイプの大学院であるWoodrow Wilson School of Public and International Affairs (WWS)で修士課程を修了した後にプリンストン大学のEcon PhDへ行っている。BlattmanとRodrikの両方の記事から、この6,7年の間にKSG (MPA/ID)で、developmentの授業がいかに変わったがわかる。(具体的に言うと、Blattmanの記述にあるように、RodrikによるMacroeconomic Developmentから、Rohini PandeとRodrik共催のMicro+Macroeconomic Developmentへ移行したようだ)。KSGを選ぶべきかPhD(econ)を選ぶべきかについて、BlattmanとRodrikの間に意見の一致は無い。また、ひとくちに「国際開発」と言っても、ターゲットとなる就職先によって、KSGとPhD、さらにはKSG以外のMPAそれぞれの効力は違うようだ。やはりソリッドな研究を行う部署に関してはPhDが圧倒的に強く、世界銀行やIMFのOperational Workに関してはKSGが強いようだ。キャリアへの効果に関しては評価が割れるが、BlattmanによるKSG(MPA/ID)とPhD(econ)の''コースワーク''の比較は注目に値する。Blattman曰く、Microeconomicsにおいて両プログラムの差はほとんどないが、Econometricsにおける差は非常に大きいようだ。

ちなみに、BlattmanとRodrikのふたりのBlogは、現在最も面白い経済学者のBlogだろうと思う。特にGrowth/DevelopmentあるいはPolitical Economyに関心があるのであればRodrikのBlogが、DevelopmentかつAfrican Economyに関心があるのであればBlattmanのBlogが面白いと思う。両者ともに毎日更新をしている。Blattmanに至っては、週末も休まないことはおろか、日に複数のエントリーを入れる。その一つ一つの記事は必ずしも短くない。個人的にここ最近この二つのBlogを追いかけていて思うことは、Rodrikによる開発経済学および政治経済学に関する大局的な観点が貴重であるということ、また、BlattmanによるAfricaおよびその他の地域の政治・経済の情報の密度の高さが実に有益かつ(同じ研究者にとって)刺激的であるということだ。生産が早すぎて、追いかけるのが非常に大変だが。。。

改訂:日本時間3月5日午前4時(ボストン時間3月4日午後2時)
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by yoichikmr | 2008-03-04 08:04 | 記事