2006年 04月 22日

価値の所在

自分で言うのもなんだが,ちょうど2年前,俺が大学3年から4年になるときひとつの小論文を書いたのだが,これが結構おもしろい。キーワードは選択と価値である。現在フランスのパリに留学している友人のGくんとのメールのやりとりでこの小論文のことを思い出した。内容はあまりないが,若さがあふれんばかりの文章でおもしろいので掲載してみる。幅広いご意見お待ちしています。


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価値の所在
(Feb 15th, 2004)





この文章は、私たちが様々な選択をするときの拠りどころとなる価値というものがはたしてどこにあるのだろうか、ということを考察する試みである。これまでの私たちの知的蓄積は、様々なことに価値を見出し、それによって私たちの生き方、あるいはあるべき姿をことあるごとに提示してきたという歴史がある。私の意図するところは、これらの偉人の人知にあえて大胆な疑問を突きつけ、独自の発想を展開することである。ただし、厳密な準備をもって学術的な論文にするという目的があるわけではないので、大雑把な考察になる。ここでは、エッセイの形でエッセンスだけを書き、今後何かの機会で厳密に考えることがあった場合に備えることにする。



マルクスは「労働にこそ価値がある」ということを考えた。彼の『資本論』その他の著作を愛読した後世の人々は、マルクスの思想があまりに人を惹きつける力が強すぎるために、「価値は労働にこそ」あると考えた。

かつて、マルクスが生きた時代よりもはるか前、「価値は貨幣にこそ」あると考えられていた。重商主義という考え方がそれである。

私はまず、これらの価値論すべてに一定の距離を置いてみる。つまり、どの考え方も受け入れないかわりに、どの考え方も可能性として排除しない。



ここからの話は少し俗世的かもしれない。



人々はそれぞれの人生の中で、はたして価値を意識していると言えるだろうか。彼らは政治的な選択や経済的な選択の場で、いつも自分の中の選択肢の序列を考えている。簡単な例で言えば、政治的選択をするときは投票のときであり、経済的選択をするときは市場で財・サービスを手に入れるときである[1]。このような場面で、人はどのような基準を元に選択肢の序列、専門的に言えば、選好順序を決めるであろうか。この問いはそのまま、人が価値を認めることとは何かという問いでもある。



社会的選択という研究分野では、この枠組みの中での結果に注目する。つまり、人々が合理的に各自、選好順序を決め、実際に行動を起こした結果がはじめの各自の選好順序とどのような関係にあるかということに注目している。

そして、私は今、枠組みの出発点に注目している。人々が何を基準に選好順序を決めるだろうかという部分である。



はじめに、私はすべての価値論を懐疑的に見ながら、完全には捨象せずに置いておいた。ここで、これらの価値論が人々の選択基準になっているかを検討したい。



厳密に考えて、人々は特定の価値観に基づいて社会的選択をするとはいえないだろう。

たとえば、労働に価値があると考える労働価値説に従えば、人々はすべての選択肢を労働を基準にして考えることになるはずだが、そのようなことは現実には起こりえない。それは、価値が貨幣にあろうがモノにあろうが、同じことである。

私が意図するのはこういうことである。人々は選択をするその時ごとに、選択の基準をスライドさせている。つまり、あるときは自分の労働の価値を保持しようとして行動しながら、別のときには他人の労働を半ば無視しながら貨幣やモノを掻き集めようと行動することがあるということだ。こういう行動は非合理な行動ではない。重要なことは、人は完全には価値を意識して行動しないということである。だとすれば、なぜそうなのであろうか。そして、なぜ非合理ではないと言えるのか。



これには2つの答えがある。まず第1に、人々は何物にも絶対的に強い意味の価値を見出せないのだ。見出せないから意識しない、という構図である。「これさえあれば、ほかに何もなくてもよい」と言えるような価値を見出すのは容易ではない。こういうとき、人々は状況に合わせて複数ある価値の対象物を使い分ける。そして、この行動の裏には、価値というものを実質的には重要視していない思想がある。選択の基準をスライドさせるとき、その行動は不合理的となるだろうが、基準を規定する価値が個人の中で確定していないという事実が加われば一瞬にしてこの行動は合理的となる。

加えて言えば、労働価値説や貨幣価値説、物品価値説などに社会全体が過度に妄信的に集中しようとするのは、こうした価値観念、つまり、価値の所在の不明瞭さがあるからだろう。価値の所在が不明瞭なとき、ひとたび所在の明示的な指摘がなされると、人々は他の価値所在可能性を一気に排除してしまう。

さらに第2に、もし価値の所在がある個人にとっては確定的でも、彼は必ずしもそれを元に行動を決定するわけではなく、より身近な損得関係で選択をすることが考えられる。こういう場合、人は自らにとってなんら価値のないものだと知りながら、あえて逆説的な行動を取りうる。これは価値を中心に考えれば不合理だが、その個人を中心にして考えれば合理的な行動を選んでいることになる。彼にとっては、本質的な価値の所在は意味がなく、より俗物的な損得こそが重要な事項になる。



急進的な人は強い価値意識に基づいて社会的選択をすることがありうる。しかし、彼の行動は完全に社会のシステムに依存しているため、実際にひとつの価値観で行動をするということは不可能となる[2]。彼らも生活のどこかで自分の価値とするものに反する逆説的な選択をすることになる。もしその選択をせず、自分の価値観を強引に通せば、社会が彼を追放することになる[3]。


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[1] これらの社会的選択についてはKenneth J. Arrow”Social Choice and Individual Values”を参照されたい。

[2] 少なくとも私には反例をあげることができない。

[3] A.スミスの言うSympathyは、人々にこうなることを避けようとさせる。A.スミス『道徳感情論』





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価値の所在2
(Feb 15th, 2004)


価値というものを考えようとするとき、話がこんがらがってしまう恐れがある。それは、価値と一言に言うとき、それが何を指しているのかが不透明だからである。私は価値には2つの捉え方があるように思える。ひとつは、日ごろ私たちが「価値観」という言葉で表すものである。ここでいう価値とは、複数のものを比較するという背景をもとに生み出されるものである。複数ある選択肢の中から、それらを相対的に比較し、その結果他のものより勝るもの自体が価値を内在するものとして捉えられる。例えば、スポーツを大事にする考え方と芸術を大事にする考え方を比較した結果、ある人がスポーツを大事にする考え方をとった場合、彼にとってはその考え方自体が価値を持ち、こうした比較の積み重ねによって「価値観」が形成されていく。いわば、経験的価値である。

一方で、比較によって生まれるのでない、アプリオリな価値というものが考えられる。私はここではこのアプリオリな価値を対象として考えている。だが、この価値の定義について説明することはできない。なぜなら、私はここで、アプリオリな価値というものはどこにも存在しないと言うつもりだからである。



アプリオリな価値を考えるためには、価値探求の旅がどうして始まったかを考えなくてはならない。この価値探求の旅は、重商主義の貨幣価値説を生み出し、マルクスの労働価値説を生み出した。マルクスの剰余価値搾取の理論[1]には批判を加えるつもりはない。ただし、マルクスの理論は資本主義の分析として意味があるだけであり、その理論をもとに人々が生活を、体制を変革させるべきだというのは労働価値を過大評価しているという意味で誤りである。



何百年にもわたる価値所在を巡る論争は、人々の生活をより幸福にしようとする動機に基づいていると考えられる。この動機は、価値あるものが明らかになれば、それを追い求めることで人々の生活が幸福になるだろうという考え方である。それは経済学の根本にあるものであるし、哲学の存在理由でもあり、人々が一般に共有するものである。



ところが価値というものはどこにもない、と改めて仮定する。



万人を幸福にする価値や、そうした価値を内在するものというのは存在し得ない[2]。この仮定に従えば、この世に存在する価値とは、先にあげた経験的価値のみである。人々はこの経験的価値を元に、しかるべきときにしかるべき選択を行う。その選択での判断基準はアプリオリな価値とは相容れないのは言うまでもない。



先の草稿で、「人々は特定の価値観に基づいて社会的選択をするとはいえない」と言った。このときはアプリオリな価値の存在には触れなかったが、今ここで2種類の価値のうちのアプリオリな価値の存在を完全に否定したことで、「特定の価値観」とは先天的なものからの流れを受け継ぐことなく後天的に作られる経験的価値を指すことになった。



経験的価値は、時間と場所の制約を受けて変化する。ならば、価値が流動的ゆえに、それに基づく人々の選択は多分にもろく変化しやすい。したがって、個人による選択は到底真理にはなりえない。例え誰かが絶対の真・善・美である選択をしたと思えても、形而上学的に見ればそれは絶対的真・善・美にはならない。



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後記



今回、価値はどこにもない、ということに関して厳密な検証はしない。しないというよりも、することはできないと言うほうが正確である。



このエッセーは、先にもあげたKenneth J. Arrowの”Social Choice and Individual Value”を読む過程で、就職というひとつの選択とその際に考える価値というものがどのような関係にあるかを個人的に考えたことが出発点になっている。だから、はじめから学問的考察というのは重要ではなくて、むしろ「僕」という人間が社会にいて、働いて、いつかは死んでいくという短いサイクルの中で、どうやって自分を満足させられる選択をできるかという個人的な問題の答えみたいなものを追求したかった。



このエッセーを読んでいる人は大方僕の友人かと思う。僕たちは大学を出た後、いろいろな形で社会に出て行くことになるわけだけど、そこでどういう形で社会に出て行くかっていうのは、人生数あるうちのひとつの重要な選択だと思う。大学を出た瞬間の形なんてのは、このご時世それほど大きな意味を持たないかもしれない。それでも、就職活動をする友人の話を聞くにつれ、定年までの約40年間というのは大なり小なりのドラマを含んでるような気がした。人それぞれの人生のシナリオは初めから終わりまで、その人にとっては一貫したシナリオだ。それだけにみんな、はじめの出だしで様々に悩み、考えている。僕も例外ではない。会社に就職する人以外でも、資格、国家試験などいろいろな進路を考える人はそれぞれに彼らなりの引き返せない選択をしている。



この選択では、何を大事に思うかで選択肢は変わってくる。僕は細かい選択肢の内容については重要ではないと思っている。例えば、会社に就職する人がどの業界に行こうか悩むなんていうのは実は重要ではないということだ。もちろん、どうでもいいわけではない。けれども、その前に考えるべきことがある気がした。それが、人によって異なる価値(経験的価値)なのである。



何に価値を見出して、何を追及するか。それは考えれば考えるほど難しい。けれども、働き出してからではゆっくり考えることもできないし、今考えて無駄なわけではない。

友人に「お前にとって仕事とは何か」と聞かれた。こういう単純な質問ほど、実は答えるのが一番むずかしい。僕は、つまるところ仕事とは金稼ぎ以外の何物でもないと今は考えている。そこにやりがいを見つける云々というのは2次的な問題なのではないかと思ってる。結局~~だ、みたいな極論は正論たりえないので好きではないのだが、文系出身の人間にできることというのは、たかだか出来上がった価値あるものを移動することでしかないのではないかと思っている。じゃここで価値とはなんだっていう問題はひとまず置いとけば、新しく何も価値を生み出さない行為に人はどれくらい耐えられるだろうと思う。やりがいというのはどこまで行っても自己満足でしかない。だから、自己満足を感じられなくなったらどうすればいいんだって思う。



僕が大学2年生のときのある授業仲間と日本経済のこれまでと現状の話をしたときのことは今でも覚えている。

日本はずっと高度経済成長にあった。そういう時は仕事だけの人生というのが成立しえた。だけど、今は違う。社会的に構造改革が必要となっているのは、日本という国家がこれまでと違う方向へ移行しようとしているからだ。僕と友人たちは、これから日本人は今までと違った幸せの形を追求しないといけないんじゃないかということで一致した。お金で買える幸せには限界がある。それは昔だってこれからだって変わらない。


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[1] 労働者は給料としてもらう分よりも多くの価値を生み出しており、その分は企業によって搾取されているという理論。『資本論』はこの点を指摘したところに意味がある。

[2] 哲学の存在論をいくらか勉強していればここでの議論の役に立ったかもしれない、と悔やまれる。
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by yoichikmr | 2006-04-22 22:33 | 記事


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