Do Something II

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2005年 12月 05日

連載:Who Wins the Game; COMPETENCE & COORDINATION FAILURE

昔からおれを良く知る人は,おれが「頭の良い悪い」で人を区別するのを嫌いだって知ってると思う。

なぜおれがそう思うかというと,この区別はこれだけで人を完全に区別しがちだということと,すくなくとも今の日本では「頭の悪い」人に厳しい社会だからっていうことの二つがある。

あたりまえのことだけど,人は無限次元の特質で区別できる。サッカーがうまいとか歌がうまいとか計算がはやいとかジョークがおもしろいとか悪知恵が利くとか,ありとあらゆる特質をみんな持っていて,それゆえにみんながオンリーワンの人間として存在してる。これは事実。こういう「100人いれば100人それぞれが違う人」という事実を都合よく分けてしまうのが「頭の良い悪い」という分類だと思うんだ。

でも「サッカーうまい人へたな人」の分類もあるじゃないか!といえば,そりゃそう。けど,これがそんなに問題にならず,「頭の良い悪い」が問題になってしまう理由があって,それが機会格差社会という構造。

どういうことかというと,頭脳明晰,何をやらせてもそつなくできる人っていうのはよくいるものだけど,彼らはその「能力」のおかげで,社会がどう変化しようが環境がどう変わろうがやっていくことができる。とりあえず生きていくことはできる。一方で,何をやらせてもうまくできなくて,なかなか学ぶことできないひとというのもいて,彼らは自分のできる範囲でしか仕事をこなせないので社会の変化や環境の変化に対して非常に弱い,適合しにくい性質を持ってる。

こういう状況だと,コーディネーション(協調)次第で社会全体が良くなっていくか悪くなっていくかが変わってしまう。(これは経済発展なんかの文献で語られることもある重要な考え方なんだよね。)

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①頭の良い人とそうでない人が互いに補完しあって(補い合って),社会全体がどんどん良くなる場合。これはコーディネーションがうまくいっている状況で,相対的に頭の良くないひとのことも頭の良い人たちが引き上げているケース。

②頭の良い人とそうでない人の間でミスマッチ,ギャップが起こって,社会全体がどんどん悪くなっていく場合。これがコーディネーションの失敗(Coordination Failure)が起こっている状況で,相対的に頭の良くないひとが頭の良い人たちの足を引っ張ってしまうケース。
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で,国によって社会によって①になりやすいか②になりやすいかという性向がある。おれは日本という国は②になる可能性が本当に高い国だと思う。アメリカという国は限りなく①に近い国だと思う。何が日本をそう評価させるかと言うと,例えば,

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◆職業訓練カレッジがない → 社会構造や環境が変化したとき,職を代えざるを得ない人たちが次の職に移っていけない。 → 構造・環境変化に逆らっていつまでも前の職に居続ける。 → 構造・環境変化がなかなか進まない。(ここでコーディネーションの失敗)

◆多様性を拒む(例えば人を「頭のよしあし」で完全2分化する) → みんなが画一的評価の中での良い方になろうとする → なれなかった人は落ちこぼれる → 彼らは自信をなくして,生産活動に積極的に参加しなくなる(コーディネーションの失敗)
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上に書いた「『頭の悪い』人に厳しい社会」ってのはこういう風に例を挙げるとわかりやすい。

社会というのは常に変化し続けるもので,それが経済的な変化であれ政治的な変化であれ,全体が変化する中でそれに意図的に適合しなくてなならない人が出てくる。それはいつも「頭の悪い人」ということになるのだけど,彼らに対するサポートが社会全体からなされるなら問題は無いが,何もサポートが無く,彼らに「自分の力で社会の変化に合わせろ」と言うような状況は問題だ。

2,3年前にまだ日本の経済が踊り場を出たのか出ていないのかわからないようなときに構造改革ということがさかんに言われていた。そのときよく議論になっていたのが「雇用創出」というもの。古くなったor効率の悪くなった産業から新興産業への労働力の流れを加速させよう!そのためにはどうすればいいだろうか!?という議論が夜な夜なされてた。政府としては変化に合わせなくちゃいけない人にサポートはしようとしていたみたいだ。

けど,実は政策的に労働力を望ましい産業に移そうとすること自体もコーディネーションの失敗の種になりうる。政府の政策がいつもよりよいコーディネーションに導くというわけではない。だから,その意味で上で言った議論というのは第二段階でなされるべき事柄だった。「これからどうすべきか」の前に「コーディネーションの失敗の原因はどこにあるのか」を探るべきだと思う。

おれの見解としては,それは価値観のバイアスにある。
価値観のバイアスとは,人の能力を多様な特質の中から個別に評価するのではなく,画一的な基準にそって評価しがちな偏向のこと。この価値観バイアスが悲劇なのは,評価を受けるべき人や活動が正当な評価を受けないことにある。例えば,初等中等学校では部活動が活躍する場ってのは少ない。「それは趣味だろ」的な見方がはびこっている。本来はそれを大々的に応援したり讃えたっていいはずなのだ。また,歌が好きでうまい人だっているんだから,その人に学校の運動会で国歌だったり何かの歌を歌ってもらってもいいはずだ。こういう風に,それぞれの特質を最大限に引き出すことでより素晴らしいシチュエーションやコーディネーションが達成できるのにもかかわらず,そういうチャンスを初めからそぎ落としているのが価値観のバイアスなのだ。ダイナミックに考えてみると,こういう価値観のバイアスは自然発生的に補正されることはない。なぜかというと,バイアスを持っている社会に生まれる新しい世代はバイアスを持ちがちだというのが自然だからだ。そうなると,バイアスを是正するのは外部から新しい価値観を導入することしかない。余談だけど,そういう意味では移民を受け入れる必要があるとおれは思う。

おそらく,そうした価値観のバイアスが生まれたのは戦後の高度経済成長期じゃないかと思う。まさしくこのときはコーディネーションが非常にうまく行っていたときで,去年より今年,今年より来年になればなるほど所得が上がっていた時期だ。画一的だった庶民の生活に差が出始めたのもこの時期だ。それにしたがって,「成功したきゃ大学行け,大企業行け」という価値観が生まれたのは自然だ。

価値観のバイアスが是正されなければ,社会が変化していくにつれ,またコーディネーションの失敗が起こる。政策的にいくら補正をしたとしてもだ。戦後50年は右肩上がりだったからそうしたコーディネーションの失敗の存在に気づかないでいられたんだろうけど,もう右肩上がりは起こらない。だから,足元にある自分たちの価値観を見つめなおしてみないと明日の世代がかわいそうだと思う。


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頭のよいわるい,についての本音

多分,この連載の次回の記事に書くのは一種の「頭のよいひと」を褒め称える記事だと思う。笑。けどその前にひとつ釘をさしておきたい。

頭がいいと言うとき,何をもって頭がいいと俺らは言ってんだろうとたまに考える。思いつくのは,「問題処理が早い」「表現の仕方がうまい」「いろいろなことを知ってる」「人が思いつかないことを思いつく」「間違いを犯さない」などなど。

こういうひとってよくいるし,素晴らしいことだと思うんだけど,みんながみんなそうである必要は無いと思うんだよね。だけど,そうありたいって人って結構多いのでは?とも思う。いや,そうありたいと思っててもいいんだけど,そのせいで自分の魅力が何かってのを見失うなよってすごく思う。うん,そこ。

男でも女でも,そいつの魅力ってのは仕事とかずば抜けた能力とは別のトコにあると思うんだ最近。
仕事のことではすごい賢いなーって思うのに,それから一歩外れるとボケかましちゃうとか。
いつもまじめに仕事行ってるけど,たまにみんなで集まるとエロいことしか言わないとか。
なんか,そういうのがそいつの魅力だったりするわけじゃん。
友達を頭で思い出してみて「あいつ,ほんとバカだよな~」って笑えるのって頭の良し悪しとは別のトコだよね。

そう思うとね,頭がいいかどうかなんてどうでもいい気がするんだよ。
どんな仕事してるかとかどんな大学でてるかとかじゃなくてさ,そいつの笑顔のあるところには何かしらの魅力が転がってると,お兄さんはそう思うんだ。だから,笑顔フェチ(一応言っとくとフェチなのは女性の笑顔だけね)。
(おし,しまった^^)
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by yoichikmr | 2005-12-05 07:24 | 特集


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