2010年 01月 04日

統計学の発展と科学への懐疑

■ 20世紀を特徴付けるのは物理学の発展だと言われる。あるいは、社会科学に目を向けると、経済学の発展が20世紀の象徴だと目されるかもしれない。これらの学術的発展を下から支えたのは、19世紀末に、それまでの数学的知識を応用する形で勃興してきた統計学である。統計学は、過去1世紀に数多くの科学的知識(サイエンスでは物理学、化学、生物学、工学など、社会科学では経済学、社会学、政治科学など)が生まれたとき、現実に観察されるデータから「命題(仮説)の確からしさ」への論理的経路を提供してきた。別の言い方をすると、統計学は経験を知識に変えてきた。その意味で、20世紀を真に特徴付けるのは統計学であって、人類史の観点に立てば、この「統計革命」こそが重要な事件だろう。

■ 物理学や経済学に限らず、学問の中枢には観察可能な現象間を繋ぐ論理的パイプとしての理論があるけれど、この理論(演繹的推論)は必ずしも真であるとは限らない。なぜかというと、理論が系(けい)内部で論理的に整合的であるとしても、その系自体が、人間の認識と無関係に存在する真理(もしそれが存在するとするなら)と整合的であるかどうかはわからないからだ。地動説と天動説の二つの理論はその良い例だろうと思う。どちらの理論も体系内部では整合的だったが、コペルニクスとガリレイは、天動説が拠って立つキリスト教的自然観を疑い、丹念な観察を重ねた結果、地動説が正しいことを証明した。学問体系の基礎を作る諸概念が実際と相容れない場合、その上にたつ理論は真理として受け入れられることはない。

■ 観察は、系の確からしさと理論の確からしさとを精査する。系の確からしさが疑われ、結果として新しい系が生み出されれば、学問体系そのものが大きく生まれ変わる。これはThomas Kuhnが言う「パラダイム」の変化。一方で、大抵の場合、理論の確からしさが疑われる。観察によって理論が反証されれば、その理論は二度と知識として認められることはない。それでは、系内部で論理的に整合的な理論が観察によって反証されなかった場合は、われわれはその理論を新しい知識として認めてよいのだろうか?

■ 現実の学術世界では、こういう作業を経たアイデアは「知識」として共通了解されていると思う。けれども、俺はここでKarl Popperの言う反証可能性という考え方の持つ示唆に忠実であるべきだと思う。「反証可能性の示唆すること」とは、帰納法への懐疑であり、さらに(誤解を恐れず)言えば、経験主義の上に立つ(すべての)科学への懐疑だ。この場合の懐疑は、「消極的な懐疑」を意図していて、それはむしろ不可知論的立場に近い。すなわち、経験的にひとつの命題の真偽が確かめられたとしても、それが別の観察によっても同じく確かめられるかどうかは分からない(不可知)という立場だ。この立場の下では、たとえあるアイデアが数百年の間棄却されることなく生き続けてきたとしても、それはひとつの深刻な反証の前では無力となりうることを意味している。特に、社会科学は、複製することが事実上不可能な実験装置(例えば、歴史)上でしか観察することができないから、ひとつの標本上で命題が真とされても、別の標本上で命題が真となる保証はない。観察者(研究者)に観察不可能な要因が、命題の真偽判定に予期せざる影響をもたらすかもしれない。事実、こういう競合しあう実証的結果は豊富に転がっていて、だからこそ、学会内では「論争」が起こったりする。

■ つまるところ、理論的方法と経験的方法のどちらか、あるいは両方を取ったところで、それはひとつのアイデアに過ぎない。「理論と実証が学問進化の両輪」とする論は不完全だ。学問は、演繹的であれ、帰納的であれ、ひとつの考え方を提示することしかできず、結果的に蓄積されるものは、真かもしれないものと、真ではありえないものとの区別なんだろうと思う。学術的作業を通してできることは、古代ギリシャ哲学者が目指したような命題の真偽への接近ではなくて、(a)明らかな偽を排除した上で、(b)諸々のアイデアを並べることなんだろうと思う。
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by yoichikmr | 2010-01-04 12:53 | 記事


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