人気ブログランキング | 話題のタグを見る

Do Something II

dosmthng.exblog.jp
ブログトップ
2010年 06月 07日

ソマリアの若者は何を思うか

6月から3ヶ月間の予定でワシントンDCに来ている。国際通貨基金(IMF)という機関にお邪魔してインターンをさせてもらっている。国際貿易に関する部署に入れてもらって、この機関がどのように機能してるのかをつぶさに観察する機会を頂いた。大学とは違う国際機関という組織の働きに触れる良い機会であると同時に、諸々の政府機関、NGOなどが集中するこの都市ならではの人種のるつぼを体感できる良い機会でもある。

6月4日の金曜に Dupont Circle という町のバーで NBA Final Game 1 を見た後、歩いて Georgetown の家まで歩いて帰るはずが、慣れない土地のために無駄な労力を払って遠回りしてしまった。帰宅が2時を越すと判断してタクシーを捕まえることにしたら、森の中にもかかわらずすぐ捕まった。

ドライバーはソマリアからワシントンDCに来ている青年だった。

彼は平日を大学生として過ごして、週末にタクシードライバーとして働いていると言った。俺が彼のタクシーをつかまえたとき、時刻は1時ころだった。タクシーには、その日のニュースをまとめて伝えるラジオが流れていた。

タクシーがカーブに差し掛かると、彼は、カーブの内側にある広大な敷地にはアメリカの副大統領が住んでいると言った。Joe Biden のことかと聞くと、海軍の基地もあると言った。

出身を聞かれ、それに答えると、彼は、8ヶ月足らずで行政トップの首相が交代するなんて馬鹿げてると言った。日本の総理大臣が入れ替わったのはワシントン時間でその前日で、俺がその事実を知ったのはその日の朝だった。一(いち)タクシー運転手がそんな他国のことを意見するとは予期しておらず、面食らった。

タクシーがバーの集積する辺りを過ぎるとき、彼は人ごみが一層賑やかでパトカーと警官が目に付く辺りを指して、「アメリカ人は飲んで騒ぐ。女が上半身裸になっているのを酔いながら見て、大騒ぎする」と言った。「おれはこの界隈が嫌いだ」とも言った。

しばらくして家の付近に辿り着き、代金を払って礼を言ってタクシーを降りた。

++++++++++++++

ソマリアは2010年6月現在で、統治国家として国際社会から認められていない。長引く内紛と近隣諸国との戦争のせいで国内行政機関が機能しておらず、国連による治安維持部隊が派遣された経験がある。すぐそばのスーダンがダルフール内紛を抱えながらも国内政府が公的サービスを提供している一方で、ソマリアではあらゆる公的サービスが十分に提供できない状態に長いこと置かれている。国際社会がスーダン政府に対してダルフール紛争の解決へ向けたプレッシャーをかける一方で、ソマリアに対しては、国際社会全体が為す術なく放置している状況にある。今日この瞬間、ソマリアほど悲劇的状況に置かれた国はない。

俺は、そんな国からきた青年に会った。

俺と彼はこれまであまりに違う世界を生きてきたと思った。俺は自分が生きることに困ることなく生きてきた。彼は国が命を守ってくれないところで生きてきた。俺は世界中のだれもが敬意を表する国からアメリカに来た。彼は世界中のだれもが哀れむ国から来た。俺は働くことなく人から金をもらって勉強したり酒を飲んだりする。彼は週末の夜まで働いて稼いだ金で大学に行く。その違いを思うと、これまで経験してきたあらゆる差異がちっぽけなものに思えた。人種や宗教、国や肌の色、言葉や教育年数、あらゆる差異がまったく意味を為さなくなるくらい、俺は、彼との会話を楽しみながら、同時に彼との間の距離を感じずにはいられなかった。

それにもかかわらず、彼との会話は、その一球一球のやりとりがズシリと重く、強く俺の心に響いた。彼は彼の視点で、他人がどうであるかに関係なく、自由に考えて話した。同時に、その言葉に込めた思いは吹けば飛ぶような軽い気持ちではなかった。彼は、俺は敬虔なイスラム教徒だ、嘘は絶対につかない、と何度も強調した。アメリカにいて、世界を観察しながら、己の出自に負い目を感じることなく、それを悲劇と感じるそぶりも見せず、アメリカに対しても日本に対しても、おかしいことはおかしいと彼は言った。「郷に入れば郷に従う」と同時に、自分の中に意志と信念を持ち続けることがいかに大変なことか。彼のように11年もアメリカに住んでいれば、それはなおさら難しいはずだ。

彼にとってタクシーを運転することは日銭を稼ぐことに留まらないんだろうと思う。ラジオから流れる世界中のニュースに耳を傾けながら、俺のように不規則に乗り込んでくる多種多様な客との会話を通して、いろんな経験を肌で感じているんだろうと思う。そんな彼と、少しでも接点を持てたことを嬉しく思う。

# by yoichikmr | 2010-06-07 14:21 | 日記
2010年 02月 19日

起業家精神と寡頭制資本主義

■ 2009年11月下旬に米国ワシントンDCの世界銀行で行われた会議のなかで、経済成長へ繋がる起業家精神(Entrepreneurship)について議論されたパネルディスカッションのビデオを見た。実に秀逸、かつ有益なので、ここに記す。

注意:ここでは、英語で話されるEntrepreneurshipを「起業家精神」として翻訳する。Entrepreneurshipは精神のあり方を問うだけではないので、不完全な訳だが、適当な訳を思いつかないので「起業家精神」で代用する。

■ 参加者のひとりであるニューヨーク大学スターン・ビジネススクールのウィリアム・ボウモル(William Baumol)教授は、起業家を二種類に分けるべきだと言う。ひとつは革新的起業家、もうひとつは複製可能な起業家だという。革新的起業家は経済全体の成長を加速させることに貢献し、複製可能な起業家は飢える人たちを貧困から救うのに貢献するという。

■ ボウモル教授のコメントが鋭さを増すのは、彼が起業家精神の教育について言及したときだった。彼は、教育によって起業家を生み出すことはできるのかと問う。社会が起業家を育てることはできるのかと問う。社会と経済の持続的発展を企図するとき、このような問いはわれわれが最も知りたいものだ。これらの問いに対して、ボウモル教授は一種の否定的な意見と古代中国の例からの示唆を紹介している。

■ 教育は、起業と経営に必要な知識を教えることによって、起業家を複製させることができるかもしれないが、他方で、革新的企業家の登場の芽を摘んでしまうかもしれない、とボウモル教授は言う。ビジネススクールにおいて教えられる起業家精神は、その意味では破壊的かもしれないという。ビジネススクールで教鞭を取る一教授の言葉として捉えなおすと、この意見の持つ意味は大きい。

■ ボウモル教授は、古代中国で行われていた官僚登用試験(おそらく科挙のこと)に言及し、受験者が文献や先生の言葉をそのまま記憶してでも試験に合格しようとするこの制度が、当時の中国人エリートの創造的能力をおそらく破壊していただろうと言う。そして、当時の中国では、他国と比較しても数学者の登場が非常に稀だったと言う。ここでは、数学者が創造的能力の代名詞として暗に仮定されているのだが、驚くことに、稀にしか現れなかった中国人数学者は、皆、官僚登用試験に不合格だったらしい。過度な競争に直面せざるを得ない官僚登用試験に労力と資源を費やさなかった者だけが、創造性と発想力を開花させることができたのだろう。

■ ボウモル教授は、起業家精神の教育だけでなく、成功する起業家の特質にも注目する。成功する起業家は、彼ら自身が強力なロビー活動家となることによって、彼らがプレイするゲーム自体のルールを変えてしまうと言う。これは因果関係を指摘しているわけではなく、相関関係を言っているに過ぎないのだが、経済の重要な一面を捉えていると思う。起業家の成功は、己のプロジェクトの成功そのものから来るだけでなく、市場や制度などが彼らの好むものになることからももたらされるということだ。起業家が市場に参入するための障壁は一概に言って低くない。起業家がこの障壁をいかにして乗り越えるかによって、この起業家自身の成功が決まるだけでなく、それは最終的には、経済全体のその後の成長経路をも決める。起業家の成功が社会への貢献になるのだとすれば、彼らがロビー活動を通して社会に働きかけることは、彼らの本業と無関係なことではない。

■ このパネルディスカッションを見ていて最も面白かったのは、このボウモル教授のコメントとは別にもうひとつ、ハーバード大学経済学部のアンドレイ・シュライファー教授のコメントだった。シュライファー教授は、全米経済学会が2年に一回45歳以下の経済学者を表彰するジョン・ベーツ・クラークメダルを受賞しているほどの大学者で(ノーベル経済学賞より難しいと言われる)、特に、規制・金融制度・法律・官僚制など、起業家精神を取り巻く制度の側面から起業活動を研究をしてきたことが有名だ。

■ 会場からの質問として、文化的側面が起業家精神に影響を与えることがあろう、例えば、日本の「失敗を許さない」文化は、より創造的な起業家精神を生むのにそぐわないのではないか、という質問があがったときのシュライファー教授のコメントが興味深いので、少し長いが、ここに載せる。
I find the comment about Japan to be extremely humorous... I started as an economist in mid 1980s, and some of you may recall that at that time, Japan could do no wrong. It was a most productive, most entrepreneurial, most financially sophisticated, most manegerially advanced country in the world. And every institutions it had, from marketing to accounting to whatever else it had, was absolutely the best there could ever be. And that, of course, was a complete diversial to what people believed about the Asians in 1950s, which was that the Asian culture was unsuitable for entrepreneurship, and economic development. So, I think we need to be... it's absolutely true that what we need to think about when we try to understand the basic sources of growth... it's important to appreciate that just how people do it in various countries is going to be different. They are going to be countries with different financial systems, and different allocation of activities between super-large firms and small entrepreneurial firms and so on. So, what we need to think about is, it's actually [someone] said, what exactly it is that the South Korea and Israel and US and the Northern Italy have in common that they create this massive entrepreneurial equal systems... It seems to me that once you try to figure that out, I think the answer, at least to me, that you end up with is that, to put it crudely, it all have some smart guys. It all have some people who are Gauss, who can put things together, and sell it. I think that's the central point to keep in mind.
シュライファー教授らしからぬほど要領を得ないコメントだが、要するに、よりよい制度とそれを生み出す賢い人たちがいることが重要であって、文化的差異は重要ではないということだ。思うに、われわれは皆、このことを常に覚えておかないといけない。産業の発展が起こるのは、その国や地域に住む人々が特殊な能力をもっているからではない。本質的なことは、諸々の能力を持ったさまざまな人たちが、己の望むようにその能力を発揮するための制度を構築するということだ。日本経済が、特に製造業が、戦後において世界でも稀にみる成功を収めたのは、日本人が器用だったからではなく、日本人が勤勉だったからでもなく、ひとえに個々人が能力を発揮できる環境が整っていたからなのだ。

起業家精神と寡頭制資本主義_b0056416_1356562.jpgでは、われわれはどのようにして、企業家精神の発揚にとってよりよい制度や環境を作り出すことができるのか。世界銀行のパネルディスカッションはそれを議論するところまでは行かなかったが、座長を務めたカウフマン・ファウンデーションのロバート・ライタン氏は、ボウモル教授との近著"Good Capitalism, Bad Capitalism, and the Economics of Growth and Prosperity"の中の議論を紹介してパネルを終えている。彼らは、資本主義をいくつかのタイプに分類し、寡頭的資本主義が最も悪いシステムであると議論している。寡頭的資本主義とは、ごく少数の人や組織が権力を握る資本主義のことだ。ライタン氏らの議論では、これに対する解決策は平和裡の革命しかないという。

■ ライタン氏らが議論する寡頭制資本主義は、奇しくも今日の世界経済に蔓延していると言えるかもしれない。少数の勢力が権力を牛耳ることは特に金融市場で起こりやすく、それは現実に過去四半世紀にアメリカを中心に起こっていたと言えるかもしれない。そして、われわれは今、その寡頭的資本主義の醜態の一部を目撃しているのかもしれない。今後、世界の金融市場がどのように整備されていくかはわからないが、このような寡頭制の登場を抑制することができるのかということ、つまり権力をよりよく制御できるのかということが今後の世界経済の課題になるだろう。

++++++++++++

- Conference on Entrepreneurship and Growth
November 19-20, 2009 - MC2-800 - World Bank, Washington DC

- PANEL: Promoting High-Growth Entrepreneurship (VIDEO)

# by yoichikmr | 2010-02-19 13:37 | 記事
2010年 01月 25日

オバマ政権の医療保険制度と景気刺激策

■ 先週19日火曜日、米国マサチューセッツ州で行われた上院議員補欠選挙で、共和党のスコット・ブラウンが選出された。この選挙には、下院に提出されていた全国医療保険制度に関する法案(Healthcare Bill)が上院で可決されるかどうかがかかっていた。今回の選挙で共和党議員が選出されたことで、Filibusterと呼ばれる嫌がらせ行為(答弁をする議員がトイレから出てこない、などw)を強制終了できなくなるらしく、この法案が上院を通過することが困難になった。上院100議席中60議席を確保しないとFilibusterを排除できないらしいが、今回の選挙で民主党は60議席を割った。

■ 米国は全国共通の医療保険制度を持っていないが、マサチューセッツ州は州独自の医療保険制度を持っている(俺も強制加入させられている)。州独自の医療保険に加えて、全国共通の医療保険も始められたら、マサチューセッツ州民にとってプラスとならないと見られていたようで、だから、選挙に投票した人たちは全国共通の医療保険を嫌って共和党を選んだと見る人もいる。

■ しかし、今回の選挙の結果は、医療保険システムに対してマサチューセッツ州民が「待った」をかけたというより、発足以来ちょうど1年のオバマ政権の経済刺激策に対する「待った」と評価する向きが多い。

■ オバマは2008年11月の大統領選挙時、マサチューセッツ州で26%ポイント差で勝ったが、今回の上院補欠選挙では5%ポイント差で負けた。大統領選のときバージニア州では6%ポイントで勝ったが、2009年11月の州知事選では18%ポイント差で負けた。大統領選ではニュージャージー州は16%ポイント差でオバマの勝ちだったが、2009年の州知事選では4%ポイント差で負けた。2010年は、11月に大統領選中間選挙も控えていて、オバマ政権に対する中間評価が続くことになるが、過去数ヶ月の選挙結果を見る限りでは、米国民のオバマ政権に対する評価は辛い。
President Obama carried Massachusetts by 26 points on Nov. 4, 2008. Fifteen months later, on Jan. 19, 2010, the eve of the first anniversary of his inauguration, his party's candidate lost Massachusetts by five points. That's a 31-point shift. Mr. Obama won Virginia by six points in 2008. A year later, on Nov. 2, 2009, his party's candidate for governor lost by 18 points—a 25 point shift. Mr. Obama won New Jersey in 2008 by 16 points. In 2009 his party's incumbent governor lost re-election by four points—a 20-point shift. [The New Political Rumbling: Massachusetts may signal an end to old ways of fighting. -By PEGGY NOONAN (Jan 22, 2010)]

■ オバマ政権の景気刺激策は、過去20年間の(特に90年代の)日本の景気対策と同じく、公共投資(道路工事など)に向かっている。これに対して、ハーバード大学ケネディ行政大学院のアルバート・アレシナ教授とシカゴ大学ビジネススクールのルイジ・ジンゲイル教授は、消費者がリスクをもっととることで、民間企業の投資が増えるようにしないといけないと説く [Let's Stimulate Private Risk Taking: Tax cuts are the way to nudge capital toward productive uses -By ALBERTO ALESINA and LUIGI ZINGALES (Jan 21, 2010)]。

A. 2009年以降のすべての投資に対して、キャピタルゲインへの課税を一時的に(少なくとも2年間)停止する。
B. キャピタルロスは、大部分税額控除対象にする。
C. 2009年に行われた資本への投資と、研究開発への投資をすべて税控除する。

民間貯蓄が諸々のファンド(特にMutual Fund)から株式投資へ流れることを期待している。らしい。当然、貯蓄がそんなにない人たちも救済できないといけない。アレシナとジンゲイルによると、失業補助と減税を実施するほうが、公共投資をするより効果的なようだ*。
Many are concerned about what we can do to help the poor weather this crisis. Unlike during the Great Depression, we have an unemployment subsidy that protects the poor from the most severe consequences of this recession. If we want to further protect them, it is better to extend this unemployment subsidy than to invest in hasty public projects. Furthermore, tax cuts have a much better effect on job creation than highway rehabilitation. [Let's Stimulate Private Risk Taking: Tax cuts are the way to nudge capital toward productive uses -By ALBERTO ALESINA and LUIGI ZINGALES (Jan 21, 2010)]

彼らの議論の根底にある前提は、今回の経済危機が金融サイドからのみ発生していて、実物サイドは元凶ではないということだ。そして、それは正しい。サブプライムローンがクレジットスワップを通じて信用市場を揺るがした結果、信用収縮(Credit Crunch)が起きている。信用市場は、投資信託などの中間投資家を経て債権者から債務者へ流れる間接的信用力を失っただけでなく、債権者から債務者への直接的信用力をを失った。この一連の流れの中に、技術的な問題は一切入ってこない。

■ 当然、信用市場の活況を取り戻すために、金融市場制度をより安全にしないといけない。今回記事に取り上げたオバマ政権の政策とは別に、オバマ大統領は金融市場、とりわけ銀行制度の改革に取り組んでいる。「大きすぎて倒産できない(Too big to fail)」というアイデアが大手銀行の救済をサポートしているが、それだけに、過去1年半の間、銀行の上級管理職が多額のボーナスを手にしたことに対して、民間の心理的反発はとてつもなく大きい。先週は、大手銀行の上級管理職の2009年度ボーナスが報道された。来週には、これらの銀行上層部を含め、世界中の財界・政界の人たちがスイスのダボスで経済会議に参加する。今後の展開にさらに注目したい。

_____________________
*: 公正を期すために記すと、経済学者の間でもこの点にコンセンサスはない。例えば、2008年にノーベル経済学賞を受賞したプリンストン大学のポール・クルーグマン教授は、オバマ政権の経済刺激策としての公共投資は「全く足りていない」と発言しており、さらなる公共投資を呼びかけている。
About the stimulus: it has surely helped. Without it, unemployment would be much higher than it is. But the administration’s program clearly wasn’t big enough to produce job gains in 2009. Why was the stimulus underpowered? A number of economists (myself included) called for a stimulus substantially bigger than the one the administration ended up proposing. According to The New Yorker’s Ryan Lizza, however, in December 2008 Mr. Obama’s top economic and political advisers concluded that a bigger stimulus was neither economically necessary nor politically feasible. Their political judgment may or may not have been correct; their economic judgment obviously wasn’t. [What Didn’t Happen -By PAUL KRUGMAN (Jan 17, 2010)]


# by yoichikmr | 2010-01-25 22:00 | 記事
2010年 01月 18日

社会における情報制御

■ NHKが放送した「クローズアップ現代:変わる巨大メディア・新聞」を見た。新聞産業は過去2,3年間で大きく変質したと言う。

(1) 売り上げが大きく下落した。
(2) それを受けて、雇用者数(記者数)を減らした。
(3) インターネットを媒介として記事を配信し始めた。
(4) 最近では、自社自ら記事を書くのではなく、記事を他社から買い上げるスタイルへの転換を図っている。

■ まず、新聞産業に起こっていることの表層を考えたい。次に、この事例がより一般的な社会構造に与える影響を考えてみる。

■ (1)は、番組内では、(a)情報技術(internet)の登場と、(b)消費者の新聞離れによるとされていた。(a)の効果は、新聞産業に限らず、現代のほぼすべての産業で進行中だ。新聞業界は、その流れに乗って、(3)を促進しないといずれ消滅する。(b)の効果は、俺が考えるに、消費者の好みそのものが変わってしまったとする見方と、好みは変わっていないが、消費者の置かれている立場(所得や労働状況など)が変わったので新聞需要も変わったとする見方に分割できる。

■ 売り上げの下落(1)の理由が情報技術(a)なのであれば、問題は深刻ではない。新聞産業の調整が進めば、いずれ業界は活況を呈す。もし理由が消費者の新聞離れ(b)であると、話はややこしくなる。なぜかというと、消費者の新聞離れ(b)というのは、社会の中で情報の占める位置が変化しているということであって、それは、情報が社会の中で持つ意味が大きければ大きいほど問題となる。俺は特に、この問題を下でさらに掘り下げたい。

■ 記者解雇(2), インターネットの活用(3), 記事の外注(4)の3つは、(1)を受けて、新聞社がどのように対応したかを表している。そのどれをとっても、新聞産業に特殊なことは何もない。

■ 記事の外注(4)に関しては、経済学者の典型的な観点からすると、企業解体とアウトソーシングが起こっていると言える。これらは、実際、ひとつの現象の裏と表だ。一般的に、企業は非効率な部門を発見すると、その部門をより効率的に運営する他社に売却し、その部門の仕事を外注(アウトソース)する。この企業は、非効率部門を売却して、経営により長けた部門に集中することで、経営効率を改善する。一方で、買収された部門は、その部門の経営により長けた新会社の傘下に組み込まれることによって経営効率を改善する。こうして、この一連の企業解体とアウトソーシングは社会的に見て望ましいということになる。

■ ここでは、記事の外注(4)を、生産組織の変化という上記の見方で捉えるのではなくて、社会全体の中の情報制御の変化という見方で捉えてみたい。(実は、組織の形態が情報制御にモロに影響するはずなんだが、その点はしばし置いておくことにする。)

■ 社会は、それ自体が情報処理システムだといえる。個人個人に色づけされた情報は、特殊なシステムを媒介して、時には収集され、別の時には配分される。情報は人と組織の行動を変えるから、その制御は、社会全体の生産技術に影響を与える。情報を制御する特殊なシステムの例を挙げると、市場、民主主義、学校、宗教など、枚挙に暇がない。実際、社会のあらゆる組織と制度はすべて情報処理システムだと言っていい。ここで考察するのは、個別のシステムがどのように働くかということではなくて、情報の制御そのものがいかに社会を形作っているかということだ。情報がいかに制御されているかということは、資本主義と社会主義などの例を持ち出すまでもなく、結果的に社会を特徴付けている。

■ 情報産業は、無限に要素が存在する情報空間からその一部分を取り出すサービスを行う。つまり、情報産業は、情報をコンパクトにする。情報産業は一般的にメディアと呼ばれているが、そのメディアとその他の情報制御システムの違いは、情報が集約される方法が異なるということだ。メディアは己の目的に従って情報を選別する。メディアはそれ自体が目的を持つ意思決定主体なので、彼らは彼らの目的に見合った情報を選別して提供する。一方で、市場や民主主義などの制度は、それ自体が情報選択をすることはない。これらの制度の下では、情報保有者の持つ情報は、制度を介して無目的に集約され、再分配される。

■ 情報産業の退出(あるいは変質)は、潜在的な情報選別バイアスを除去する。情報産業が価値を見出しながら、消費者が価値を見出さない情報(バイアス)を排除する。バイアスを排除する結果、消費者はそれまでに発見不可能だった情報にアクセス可能になる。過去10年から15年の間に情報技術が消費者にもたらした便益はこれにつきる(googleしかり、twitterしかり)。しかし、逆に、消費者は自ら情報を選別する必要があるので、情報探索コストを支払わないといけなくなる。

■ 上記の情報産業の変化の文脈に戻ると、情報産業の変質は、生の情報源から情報消費者までに少なくとも2回の情報選別プロセスを含むことになり、情報選別プロセスが一回しかなかったときと比べて、潜在的な情報選別バイアスは軽減される。例えば、これまで読売新聞は、自ら抱える記者が現場へ急行することによって情報を収集していた。そこでは、情報を吟味する機会が一度しかなかった。一方で、今回の情報産業の変質によって、一度ローカルな新聞社が記事を書いた後に、読売新聞がその記事を買うことになり、情報選別の意思決定が一回多くなっている。今後の読売新聞は、ローカルな新聞社が記事にした情報の中からしか記事を選べないが、他方で、消費者に届く情報は、異なる目的に従う別々の意思決定主体の選別を潜り抜けることになり、より精度を増した記事が期待できる。

■ 望ましいのは、一度別の意思決定主体の解釈(情報選別)を経ることによって、最終的に消費者に届く情報が解釈の度合いを増していることだ。情報を横流しにしているとしたら脳がない。一度情報をクッションさせることによって、多様な情報をもう一度総括し、より一般的な情報をそこから引き出すということ、それが解釈であるとすれば、そのような解釈の度合いを増すことが望ましい。この過程を情報の精密化と呼べば、情報は粗いものからスタートして、最終的には、消費者が利用可能な水準にまで精密化されていないといけない。それは、原油がさまざまな精製過程を経てガソリンなどの利用可能な消費財になる様子と似ている。情報も、同じように、精密化が必要だ。

■ しかし、情報の精密化を実行することは難しい。一面では、情報操作と刷り込み(インプリンティング)が簡単だからであって、他面では、情報選別にチェックとバランスが利かないからだ。情報選別を厳しく監視することができないから、中途半端に一般化された情報が氾濫し、消費者の行動に歪みをもたらす可能性がある。巷でよく聞くメディア批判の元凶は、情報媒体をチェック(監視)できないことにある。消費者は、いかにメディア情報に不満を持っていても、情報媒体をその役割から引きずりおろすことができない。したがって、情報操作に関する権力はすべて情報産業が牛耳ることになり、それはバランスを欠くことになる。このような状況下では、情報産業による情報操作は簡単に行われ、したがって、消費者は簡単に刷り込まれる。

■ これを打破するためには、情報産業に関するよりより制度が必要だ。これまでの100年間で、世界は多くの情報規制を経験してきた。ソ連や中国は言うを待たず、戦時中の日本でさえ情報規制がいかに徹底され、いかに個々人の諸々の機会を奪ってきたかをわれわれはよく知っている。先週発表されたGoogleの中国市場からの(事実上の)撤退は、情報産業に関する制度の現在進行形の問題を提供してくれている。一方向の情報に歪みを作ると、逆方向の情報にも歪みをもたらすはずだ。中国政府当局は、国民に流れる情報を意図的に過度に制御することによって、消費者の行動の歪みをもたらし、それを集計した情報は逆に歪んだ情報しか中国政府当局に届けない。すべてが欺瞞に彩られた社会は、誰にとっても望ましい社会にならない。

■ しかし、よりより制度を構築することがこれまた難しい。制度構築に際して、制度を作る人たちの持っている情報を効率よく収集して分配する制度を持っていないからだ。すでに情報選別権力を持っている主体は制度の変革に抵抗するだろうし、制度が少しでも変革できた場合は、逆にそれが新しい権力者を生む下地を作ってしまう。だから、制度は一度に構築できるものではない。制度の改善と(情報選別)権力の分散、さらに情報保有者が情報保有から受ける便益の軽減の3つが同時に進まないといけないし、それは逆に漸進的にしか進まないはずだ。このプロセスは実現不可能に見えるが、過去数百年の間に、人類は金融制度という資産価値の流れを制御するよく似た制度を構築してきた。いまだ不完全かもしれないが、情報制度が金融制度の経験から学べることはあるはずだ。

■ これまでの社会科学は、情報が個人や社会の間を流れていく様子を量的に明らかにしてきたが、どのような情報が流れていくかという質に関することはいまだわからないことが多い。しかし、社会が情報制御システムなのだとしたら、「どれほど」情報が流れているのかということと同じくらい、「どのような」情報が流れているかということを知り、それを制御することが重要だろう。量と質の両方においてより良い情報の制御がなされる社会を作ることは人類社会の今日的課題だろうと思う。

# by yoichikmr | 2010-01-18 15:54 | 記事
2010年 01月 18日

乳幼児への教育投資

乳幼児への教育投資_b0056416_1330317.jpg"Stimulating the Young" @ The American
by James Heckman





■ 古い記事なのだが、アイデアを呼び起こす記事なのでここで取り上げてみる。記事はシカゴ大学のジェームズ・ヘックマン教授によるもので、2008年以降の経済危機の中でオバマ政権が繰り出す経済刺激策の代替案として、乳幼児(0歳から5歳児)教育への投資を呼びかけている。

■ 記事の中では、最近の研究で明らかになってきている乳幼児教育への投資の効果が繰り返し強調されている。俺の知る限り、この一連の研究をしているのはヘックマンのグループだけなので、彼らのここ最近数年間の研究成果をまとめた記事だと見ることもできる。

■ ひとつの研究成果は次のように記述されている。
One of the most notable long-term studies is the HighScope Perry Preschool project, which commenced in 1962 and tracked the impact of two years of high-quality preschool on very poor African-American three- and four-year-olds living in Ypsilanti, Michigan. After those two years, the kids entered regular schools and have been followed for nearly 50 years by researchers.

Children in the program were less likely to commit crimes, less likely to drop out of school, and more likely to be productive, perseverant, socially engaged citizens with higher wages. As the years pass, the data reveal less teen pregnancy for girls, reduced absenteeism for boys, and less need for special or remedial education.

1962年にミシガン州のイプシランティで始まった乳幼児教育プログラムは、3,4歳の貧しい黒人児童に2年間の教育を与え、その後の児童の経済的・社会的パフォーマンスを約50年に渡って追跡している。記事によると、このプログラムを受けた児童は、犯罪を犯す可能性が低く、学校を退学する可能性も低く、生産的で忍耐力があり、より高い賃金を稼ぐ社会の一員になるという。また、歳を重ねても、女子は10代で妊娠することがなく、男子は引きこもりにならず、特別授業や補習を必要としないらしい。

■ また別の研究によると、乳幼児への投資は、高い教育水準、健康水準や社会的地位などを通じて、年率8から10%の投資効率があるという。
Research data clearly shows that investment in early childhood development for disadvantaged children provides an 8 percent to 10 percent annual rate of return through better education, health, and social outcomes

■ これまで、経済学サイドからの見た教育投資への社会的便益というのは、大部分、高校や大学教育への公的投資が個々の学生のその後の経済的・社会的成功をいかにもたらすかという観点で考察されてきた。しかし、これらの研究の多くは、特別な教育を受けた児童が後の人生において、まさに「教育を受けた」ことを戦略的に利用することによって経済的・社会的成功へ至ろうとする効果を、意図的に、ときに無自覚に考慮からはずしてきた。もし小さな集団にのみ教育投資をするのであれば、これらの集団は「他の集団を出し抜く」ことで、後々経済的・社会的な成功を収めることができるかもしれない。しかし、一方で、もし一国全体に教育投資が同じように行われるのであれば、教育による戦略的な差別化は不可能となり、子供たちが生まれてから小学生になるまでの5,6年間に作られた格差はそのまま義務教育(中学・高校)卒業まで残り続けることになる。

■ ヘックマンの提唱する乳幼児童教育への投資は、世代間で継承される所得格差の連鎖を断つという哲学を持っている。金持ちは金持ちであるがゆえに自分の子供に多くの教育投資を施し、貧乏人は貧乏人であるがゆえに自分の子供に教育投資をできない。結果的に金持ちの子は金持ちになり、貧乏人の子は貧乏人になる。これが世代間で継承される所得格差のシナリオだ。このような固定化された所得分布のもとでは、社会が分断されてしまう可能性があり、経済的に見て問題があるだけでなく、生まれたときから機会に差があるという意味で、道徳的にも問題となりうる。ヘックマンは、0歳から5歳までの乳幼児のなかでも、特に経済的に貧しい家庭や社会的に抑圧されている可能性のある黒人家庭の子供に重点的に投資をすることで、義務教育が始まる時点での児童間の格差が是正されるべきであるとする。

■ 非常に美しい議論だが、問題があるとすれば、その実践的方法だろう。特に、これらのアイデアを政策に移すときの政治的衝突を乗り越えられるかどうかが問題となる。一般的に、特定の世代のみを益する政策は、別の世代から賛同を得られないことが多い。例えば、昨今の民主党の高等教育無償化論議は、この政策から直接恩恵を受けない世代から批判を受けていると思う。アメリカの場合、高所得者層の住む社会と低所得者層の住む社会とは多くの場合隔絶されており、乳幼児教育が高所得者層へもたらす便益は無視できるほど小さいかもしれない。そうすると、この階層はこの政策に賛成票を投じず、実行に移されることはなくなってしまう。この点をクリアすることが、よりよい教育システムの実現のために必要だろうと思う。

# by yoichikmr | 2010-01-18 14:37 | 記事